「さくらを愛でる」②

上野が桜の名所になったのは、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内に、徳川家光が吉野を模して桜を植樹させたのが始まり。その賑わいは、戸田茂睡「紫の一本」(むらさきのひともと)にこう記されている。

「幕の多きは300余あり。少なき時は200余あり。このほかにつれだちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当かかげたる細引きにとほして桜の木にゆひつけて、かりの幕にして・・・・・ 」

 花見用にあつらえた金糸や銀糸を使った華やかな小袖を「花見小袖」と言ったが、それを幔幕代わり(「小袖幕」)にすることもあったことがわかる。富岡英泉「花見」にその様子が描かれている。 それでは、次の川柳は何を意味しているか?

     川柳「千金の時分追い出す花の山」

 山とは上野山内のこと。ここの開門は明六つから暮六つまで。つまり江戸時代の上野は、夜桜見物が禁止されていたのだ。「山同心」(寛永寺の役人)がチェックしていたのでこっそり夜桜を楽しむなんてことも難しかったようだ。

(渓斎「東都花暦 上野清水之桜」)

(広重 「江戸名所 上野花盛」)

(西村重長 「絵本江戸土産 上野の花見」)

(富岡英泉 「花見」)


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