「江戸無血開城とぶれない男たち」山岡鉄舟①
慶応4年(1868年)4月11日、慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡された。それを実現したのは、3月13日、14日に行われた西郷隆盛と勝海舟の会談。初日、勝は西郷を愛宕山上に誘い出して江戸城下の有様を眺させ、「これを焦土と化しては」と説明した。感無量の様子で黙して聞いていた西郷隆盛はため息をついて呟いた。この場面での二人のやり取り。
(西郷)「さすがは徳川公だけあって、偉い宝をお持ちだ」
(勝) 「何のことか?」
(西郷)「いや、山岡さんのことです」
(勝) 「どんな宝か」
(西郷)「いや、あの人は、どうのこうのと言葉では尽きぬが、何分にも腑の脱けた人でござる。」 (勝) 「どんな風に腑が脱けているか」
(西郷)「いや生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかし
あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参
りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」
西郷隆盛は大いに感嘆させた山岡とは山岡鉄舟(鉄太郎)。西郷が山岡と初めて会ったのは、わずか4日前の3月9日。その1回の対面で、西郷に「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人」と言わしめた人物、山岡鉄舟とはどんな人物か? 「至誠一貫」を絵にかいたような人物。彼自身の言葉を紹介しよう。
「もののふ(武士)というものは、出所進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上
は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。」
「晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変わらざりけり」
山岡の途方もない魅力の一端に迫りたい。
(「西郷隆盛と勝海舟の会見之地」碑)
(山岡鉄舟)
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