入浴文化比較③

 江戸時代の江戸は、古代ローマ時代のローマのように水が豊富ではなかった。そのため、掘り抜き井戸が普及するまでは、三井越後屋(後の三越)のような大店(おおだな)でも内風呂はなく、御新造さんも湯屋に通った(燃料代の高さ、火事の危険防止も内風呂の少なさの理由)。湯は貴重だったので、客が自由に湯を使うこともできなかった。桶を持って並んで、「岡湯汲み」から湯を汲んでもらわなければならなかった。

  (川柳)「ひどく混む岡湯芋虫ごおろごろ」 「寒いとき困るは湯屋のちつとづつ」

 湯屋は、江戸では寛政の改革(松平定信)や天保の改革(水野忠邦)で入込湯(「いれごみゆ」=男女混浴)が禁止されたが、定信や忠邦が失脚すると元のもくあみ。

  (川柳)「夫婦別あるのは江戸の湯屋ばかり」

 地方では入込湯ばかりで、幕末に日本を訪れた外国人を驚かせた。ペリー艦隊主席通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズはこんなふうに批判している。

「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに大腿まで覗かせる。・・・裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体なぞがおかまいなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。」

 古代ローマであれほど普及していた浴場がそのご急速にすたれたのは、キリスト教の影響。同性どうしですら互いの裸体を見せることが批判されたのだから、男女が裸体をさらけ出す入込湯がキリスト教徒の目に批判的に映ったのは当然かもしれない。イギリス聖公会の香港主教ジョージ・スミスは聖職者なだけに批判も厳しい。

「 老いも若きも男も女も、慎みとか、道徳的に許されぬことだというはっきりした分別をそなえている様子をまるで示さず、恥もなくいっしょにまじりあって入浴している。・・・ 日本人は世界で最もみだらな人種のひとつだ・・・」

(歌川国貞「睦月わか湯乃図」)湯屋における正月初風呂

(豊原国周「肌競花の勝婦湯」部分)湯屋の入口

(歌川広重 『東都名所 駿河町之図』)通りの両側の大店が三井越後屋

(「岡湯汲み」から湯を汲んでもらおうと待っている人々)

(礒田湖龍斎 「湯屋」)


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