「江戸無血開城とぶれない男たち」山岡鉄舟②

 「幕末の三舟」とよばれた人物たちがいる。幕末から明治初期にかけて活躍した三人の幕臣、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟だ。慶応4年(1868)正月11日に大阪城から江戸に逃げ帰り、2月12日から上野の寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は、自分の誠意を大総督府、朝廷に何とか伝えたいと思い続けていた。そして悩んだ末、自分を守衛している高橋伊勢守(泥舟)に依頼しようとする。しかしそれではあとのことが不安になり、代わりのものをたてる。そこで泥舟が推挙した人物が山岡鉄舟。泥舟の義弟にあたる。急使が鉄舟の家を訪れ、「将軍の命により、ただちに寛永寺の御座所へ出頭せよ」と命じられる。ここでの将軍と鉄舟のやり取りは鉄舟という人物を如実に語る。このときの鉄舟は、大切な両刀さえ質に入れて手許にないほど困窮していた貧乏旗本。一方将軍慶喜は、山岡が後年次のようにその時の様子を記している。

「仰げば将軍の面貌疲痩して、見るに忍びざるものあり、余が心中また一槌を受くるの感あり」

【二人のやり取り】

(慶喜)「余がそのほうをここへ呼びしは、ほかでもない。そのほうを駿府の官軍総督につ かわし、

    慶喜の恭順謹慎の実状を知らしめ、天下泰平を祈ることにあるのだ。その ほう、よく余が

    意を達せよ」

(鉄舟)「今日のような形勢になってから、ご恭順とは一体どういう次第でございましょう」

(慶喜)「わしは朝廷に対していささかも二心を抱いておらぬ。赤心をもって恭順謹慎している。

    しかし、征討の朝命はすでに下り、官軍は東下中である。いのちを召されることは必定だ。

    ああ、こうまでして心を尽くしているのに、こうまで世の人に憎まれ、赤心が朝廷にとどか

    ぬのかと思えば、返す返すも残念なのだ」

(鉄舟)「いまわしいことを仰せられるものではございません。人間の至誠の届かぬことはないもの

    でございます。そのようなことを心配遊ばされているのでは、真実、心からのご謹慎では

    ないのでございましょう。他にたくらんでいらせられることがあって、いつわってそう仰せ

    られるのでございましょう」

(慶喜)「断じて二心はない。どんなことでも朝命にはそむかない決心はかたく立っているぞ」

(鉄舟)「真に誠心誠意をもってのご謹慎であることがわかりました以上、不肖ながら拙者が引受け

    まして、ご誠意を朝廷へご貫徹し、朝廷のご疑心を解きます。拙者の目の玉の黒いかぎり、

    ご心配はご無用でございます」  

 大政奉還によって政権を朝廷に返上し、権威地に落ちていたとはいえ相手は将軍。剣禅によって鍛え練り上げた精神不動の境地に達していた鉄舟でなければとても吐けなかったセリフだろう。

(上野寛永寺大慈院「葵の間」)ここで慶喜は謹慎生活を送った

(広重「東都名所 上野東叡山全図」)

(高橋泥舟)天下第一といわれた槍術家山岡静山の実弟で、自らも槍の名手。25才で講武所教授となる

(15代将軍徳川慶喜)

(「幕末三舟 三幅対」右から、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟)鉄舟の書には彼の豪胆さ,

不羈独立の精神がうかがえる


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