「バロックの都ローマとシクストゥス5世」②

 1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として少年使節団がローマへ派遣された。伊東マンショ、千々石 ミゲル、中浦ジュリアン、原 マルティノの4人からなる天正遣欧使節である。彼らはスペインの首都マドリードでフェリペ2世(この時代にスペインは広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれる最盛期をむかえた。しかし、エリザベス1世のイングランドをたたくために派遣した無敵艦隊はアルマダ海戦で敗北した)の歓待を受け、ローマでは教皇グレゴリウス13世に謁見し、その後を継いだ教皇の戴冠式にも出席した。その教皇とは、ローマをバロックの都にしたシクストゥス5世である。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一とされるこの教皇を、詩人ジュゼッペ・ジョアキーノ・ベッリが次のような詩にうたっている。

    「      教皇シクストゥス        

      神さまの代理人の座にまで登った、数ある 

      者たちぜんぶのなかでも、およそ見たことがない        

      怒鳴りまくる教皇は、手のはやい教皇は、        

      とんでもない教皇は、シクストゥスに並ぶ教皇は。        

      

      身近にいる者ならば誰に対しても        

      手を下すことなど言うにはおよばず、        

      たとえキリストさまが相手でも容赦はしない、        

      そしてあからさまに叩き割ってみせた。        

      

      ありがたや、神さまのおかげで、いまのところ        

      かくも破目を外した人物の後を継いで教会を        

      窮地へ落としいれるほどの者は出ない。        

      

      だからこそ、たやすく別の一人の教皇が        

      現れて同じ好みを受け継いで厚かましくも        

      シクストゥス六世と名乗ったりはしない。       」  

 このくらいの破天荒な人物でないと、都市の大改造、社会の根本改革などできないのだろうか。

(シクストゥス5世が造ったフェリーチェ水道)

(「モーゼの噴水」) フェリーチェ水道の「モストラ」(終着点の記念碑的泉)

(天正遣欧使節)

(フェリペ2世)

(エリザベス1世)「アルマダ・ポートレート」


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