「『諦め』と自由」

 九鬼周造は『いきの構造』の中で、「いき」な意識を構成する三要素として、媚態、意気地、諦めをあげている。ここでいう「諦め」は、男女関係については「恋心にひきずられて相手に執着し、醜態をさらすことがないよう、所詮この世ははかないものと見なす境地に立って、そうした未練、執着をきっぱり断ち切る構え」となるが、この言葉、人間関係一般、さらにはより広く生き方の構えとして大切に感じる。ものにこだわらない、執着を絶つことから生まれる淡々とした境地、そこから真に自由で個性的な表現、毅然とした嫌味のない強さ、すっきり・さっぱりした快活さ、日々の生活を楽しむゆとりが生まれるのだろう。 杉浦日向子は、「あきらめる」ということについてこんなふうに言っている。

「江戸の人は大人になるということは、あきらめるというのを知るということであって、あきらめないうちは子供だ。あきらめることを知ることによって、どれだけ楽しみが増えるかというふうに言っているんですよね。・・・あきらめるというと絶望かと思うんですけども、そうじゃなくて、「まあ、いい」と言う「いい」は、「どうでもいい」のいいではなくて、「良しとしよう」の「良し」なんです。」(『季刊コラボ』1990年)

 人間は「あれもこれも」求めたがる。執着心から解放されることなど容易なことではない。自分にとって生きていくうえで何が必要なのか、何が大切なのか、そのために生きそのために死ねるようなものは何か、自分なりの解答を探し続ける中で、自分にまとわりついている無駄な執着心の糸を1本1本切り離していくことができるのだろう。そうなったときの自由な在り方を、ルノワールが明快に語ってくれている。

「名誉だって?そんなものに夢中になるのは『おめでたい奴』にちがいないよ。仕事が終わった時の満足感?絵が出来あがったら次の絵に夢中になるさ。」

 やっぱりルノワールは凄い。

(1910年【69歳】のルノワール) この年、歩行ができなくなる

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