「晴れ晴れとした絶望感」
今日は、「よみうりカルチャー北千住」で『江戸にトリップ 江戸っ子に学ぶ粋な暮らし 第2回』で、江戸っ子気質の背景にある江戸の火事についてとりあげた。火元から焼けどまりまでの間に直線を引き、長さ15町(約1,635メートル)以上に達したものを「大火」と呼んだが、それだけでも265年間に94件発生。江戸東京博物館に復元展示されている中村座は、185年間に33回焼失。水辺にあるから燃えにくいと思われる日本橋も、201年間で10回焼失している。大火が3年に1回以上の頻度で発生しているとなると、町が復興したころにまた焼失ということになる。庶民が住んでいた長屋は、全く耐火の工夫が施されていないその名も「焼屋造り」。瓦の敷いていない板葺きの屋根は、火の粉が飛んでくれば容易に燃えてしまった。家財道具と言っても、いたってシンプル。家だって借家。火事後の復興には、多くの職人・商人が関わり、彼らに支払われる代金の総額は膨大であった。火事は家屋を所有する家持たちのもとに蓄積されていた富を江戸市中に向けて放出し、結果として富の再分配の役割を果たしていた。江戸っ子特有の「ものに執着しないさっぱり、あっさりしたした気質」はやはり頻発した火事抜きには説明できないと思う。どんなに立派なものをつくったって、すぐ焼けてしまう、だから宵越しの銭は持たないといった精神ができあがったのだ。杉浦日向子が北方謙三との対談でこんなやりとりをしていた。
北方 「江戸というのは、巨大なエネルギー体のようなもので、確固としたものを残す代わりに、文
化を残したという感じですね。」
杉浦 「逆に京都は物を残していった。江戸っ子はたびたび焼け出されてしまうので、つい「てやん
でえ」ということになる。火事でもえなくなってから、本当の江戸っ子がいなくなりまし
た。」
天災、事故、病気、戦争。江戸と比べれば火事とは縁遠くなったが、人生が中断される危険は消えることはない。それを意識して生きるか、忘れて生きるかで日々の生活への構えは大きく変わってくるように思う。江戸っ子が持っていた「あらゆるものをふっ切ることによって、妙に晴れ晴れとした明るい地平へ出るという、積極的な絶望」」(杉浦日向子)の境地に少しでも近づけたらと思う。
「纏持ち」(「江戸の花子供遊び」歌川善芳虎)
「火の見櫓」と「枠火の見」(「鎭火安心圖巻」)
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