「人は人、吾(われ)は我(われ)なり」

 第二次征長戦争を勝利に導き、恩義ある望東尼を姫島から救い出した高杉だったが、病状は悪化する一方だった。慶応2年(1866)10月の末頃、下関郊外の桜山に「捫蝨処」【もんしつしょ】(「捫蝨」はシラミをひねる意味で、人前であっても礼儀作法にこだわらない場所のこと)と名付けた小屋を建て、療養の家とした。桜山には殉国の志士の霊を祀る招魂場もある。高杉は墓の掃除でもしながら、愛人のおうのとともに、静かに余生を送ろうと考えていた。しかしめまぐるしく動いていく時代から取り残される寂しさを感じなかったわけではない。その年の暮れに、父小忠太にこんな歌を送っている。

        「人は人吾は我なり山の奥に 

                 棲みてこそしれ世の浮き沈み」  

 高杉には、時代の先端を行く者特有の孤独感が付きまとっていた。特に彼は出身が上士だけに、自らの出身階級の地位を崩すことになる革命運動に対して身内の理解を得ることは困難だった。高杉の最後の詩作とされる漢詩にその思いが表れている。 毎朝窓辺に姿を見せ鳴いてくれる鴬に向かって語りかける形をとった詩である。      

        ・・・・

        君何ぞ我において看識を誤る      

        吾もとより人間(じんかん)人に容れられず

        故に人吾を責むるに詭智を以てす

        同族我を目するに放恣を以てす

        同族故に人なお容れず

        而して君吾を容るる遂に何の意ぞ

        ・・・・    

      ( 君は私のことを間違って見ているのではないか      

        私は元来、他人に容れられない人間だ      

        古い友には歪んだ才であると責められた      

        親族には我がまま放題と見られた      

        故人も親族も私を理解してはくれなかった      

        なのに君だけがなぜ、私を理解してくれるのだ   )

 自分であり続けるためには、孤独に堪える強さが求められるのだろう。しかし、そういう人間であってこそはじめて、高杉にとっての望東尼のような真に「同志」と呼べる人間と出会えるように思う。「人は人吾は我なり」。 いつも心の片隅に置いておきたい高杉のラストメッセージだ。

(「高杉晋作像」下関 日向山公園)

(「桜山招魂場」)

(「桜山招魂場」)

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