「最後の仕事、望東尼救出」

 慶応2年(1866)9月、第二次長州征討における幕府軍15万と長州藩4千の戦いは、高杉晋作の活躍もあって長州の奇跡的勝利で終わりを迎えていた。しかし、高杉の健康と体力は限界を超え、この頃病の床に伏していた。その高杉のもと姫島に流罪となっている望東尼の救出の依頼が来る。前年10月、第二次長州征討にあたって佐幕の態度を明らかにする必要に迫られて福岡藩は、謹慎中の志士たちに対して次々に処分を断行。切腹・斬罪21名、流罪16名。総勢100名を超す者たちに処分が下された。「乙丑(いっちゅう)の獄」である。勤王の志士たちに屋敷を提供し旅人を潜伏させた望東尼も流罪。獄舎は四畳ほどの板敷き。周囲は角材で荒格子が組まれているだけ。玄界灘の寒風が吹きこみ、冬の寒さは尋常ではない。火の使用は禁止。百足(むかで)、蜘蛛、アリの出没に難渋した、よくネズミが出没し、うるさくて眠れないほどだったと手紙に書いている。そんな中、望東尼は処刑された同志たちのために般若心教を血書することを思い立つ(2月9日)。萱(かや)で指を切り血を絞り出し、「あかき心」(偽りのない真心)の証として血書する。姫島の夏の暑さは耐え難く、7月中旬、ついに重い病にかかってしまう。このような過酷な生活を余儀なくされていた望東尼救出を頼まれた高杉は、周到な計画を練り、ただ一人の流血も見ることなく目的を遂行。そして、生きて会うことはあるまいと思っていた望東尼と高杉は再会する。その場面は、『春風伝』によろう。

 

 望東尼が訪れると、奥の離れで病床に伏している晋作のもとへ案内された。晋作はうのに介添えされながら体を起こした。痩せた晋作の様子に望東尼は目を瞠った。

「高杉様—―」 

 息を呑む望東尼に晋作は笑いかけた。

「かようにやつれてはおりますが、いまだに気はしっかりいたしておりますゆえ、安堵してくだされ」

「さようでございますか」 

 望東尼は晋作の傍らに座った。すると、晋作がすっと手を伸ばして、望東尼の手を取った。はっとして、望東尼は晋作を見つめる。晋作の手は病のためかひどく熱かった。自分の手のつめたさが、心なし後ろめたい思いがした。

「望東尼様をお助けしたことが、わたしの最後の仕事になりましょう。わたしは国を守りたいと念じて参りましたが、私が守ろうとした国とは、情が濃やかで、美しく、そして温かき、まさに女人のごときものなのです。望東尼様はわたしが守りたかった国そのものでございます」 

 晋作のことばを聞く望東尼の目からはらはらと涙がこぼれた。   

  実際にこんな言葉が高杉の口から出たかどうかはわからない。しかし、高杉と望東尼の間でならそんなやりとりがあってもなんら不思議はないと思わせる。おのれの信じる道を生き抜いた人間同士にしか生まれない熱き魂の交わりに心を打たれる。

(野村望東尼)

(野村望東尼の墓)

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