高杉晋作と「谷潜蔵」
高杉晋作の墓碑は、下関の吉田清水山にある。その正面は「東行墓」、裏面は「谷潜蔵源春風号東行・・・」と銘記されているだけで、どこにも「高杉晋作」の文字は見あたらない。高杉は、「高杉晋作」という名前では死んでいない、「谷潜蔵」という名前で死んだのだ。どういうことか? 元治元年(1864)12月15日、福岡の平尾山荘から戻った高杉は「俗論派」藩政府を打倒すべく功山寺で挙兵する。その数わずか80名。当初、彼が勝利すると予想した人間など皆無だった。高杉の父小忠太が300年続く高杉家の存続に頭を悩ませたのは当然だ。晋作が敗れれば「賊」となり、高杉家が取りつぶされるのは必至。小忠太はどうしたか?家を守るため、嫡子(晋作には、ほかに男兄弟はいない)である晋作との縁を絶つ道を選んだ。功山寺決起から1カ月もたたない慶応元年(1865)1月11日、長州藩士村上衛門常祐の三男半七郎を養子として高杉家に入れた。そして、晋作の末妹ミツと結婚させた。その時ミツは、すでに結婚していたにもかかわらず。ミツは長州藩士大西機一郎の妻で夫婦仲はよかった。高杉家存続のため強引に妻を取り上げらた機一郎は生きる気力を失い、維新後は財産を売り食いするような生活を続け、ある日忽然と姿を消してしまった。家門や血筋を守るための犠牲が生んだ悲劇だ。 それでは晋作はどうなったか?慶応元年(1865)9月29日、幕府の追及から逃れるために、「高杉晋作」という人物は抹消され、藩命により「谷潜蔵」という別人になった。こうして晋作は高杉家を出て、谷家の初代当主潜蔵となった。藩から谷家に対して百石も与えられる。 これが高杉が「谷潜蔵」という名前で死んだいさつである。時代の変革には多くの犠牲が伴う。明治維新の場合も、反政府側の幕府方や東北諸藩だけではなく、官軍側の長州藩においても少なくない悲劇があったのだ。そのことを忘れたくない。
(下関の吉田清水山にある高杉晋作の墓)
(高杉晋作像)
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