「改めて、ルノワールの魅力」

 今日は、10時から成城学園前の成城ホールで『ルノワールと19世紀後半のパリ』の講演会。改めて、ルノワールの魅力を実感した。 自転車事故で右手を骨折したのが39歳。リューマチ性関節炎の最初の発作が起きたのが47歳。二度目の自転車事故で右腕を骨折し、リューマチ性関節痛の痛みが頻繁になるのが56歳。それ以後、冬は温暖な南仏で過ごすようになる。61歳でリューマチが悪化し、69歳で歩行ができなくなる。エネルギーを膨大に使う歩行訓練を拒否し、車いすで生活しながら絵筆をとり続けることを選択。73歳の時、第一次世界大戦が勃発し、愛する二人の息子が徴兵され負傷。次男ジャンに会いに行った妻アリーヌは持病の糖尿病が悪化しニースで帰らぬ人に。享年56歳の早過ぎる死。リューマチ性関節炎は悪化の一途をたどる。1918年ルノワールのもとを訪問した画商ルネ・ジャンペルはその時の画家の様子を次のように記録している。

「指は痛々しく傷ついていた。骨が張り出し、皮膚がかろうじてついている。かわいそうに、彼の指は押し曲げられて手のひらに向かって伸びているのだ」

 また、晩年のルノワールの制作風景について若い友人で画家のアルベール・アンドレはこう記している。

「作業を始めると、もう筆は交換しない。いったん筆を選んだら、これを麻痺した指にはさみ、キャンヴァスから油壷へ移して洗い、パレットに戻して絵の具を少量つけ、ふたたびキャンヴァスに走らせるのである。」

 それでもルノワールが絵筆をとらない日は一日もなかった。そして、自らの肉体の痛み、苦しみをかけらも感じさせないような、幸福感に満ち溢れた絵画を生み出し続けた。生きる歓びを歌い続けた。それが神から与えられた使命であると信じているかのように。

「私にとって絵は、好ましく、楽しく、きれいなもの・・・そう、きれいなものでなければいけないんだ!」

「絵の描き方ってものがようやくわかり始めた。まだまだ上達していくように感じる」(死の前日の言葉) 

 改めて、ルノワールの絵画が多くの人々をひきつけてやまない理由が分かった気がする。壇上で講演しながら、気持ちが高ぶってしまって300人の聴講者の前で言葉が詰まりかけたのにはまいってしまったが。

(1915年【74歳】頃のルノワール)

(1915 ルノワール【74歳】 )手足の麻痺に苦しみながら瞳はなおも鋭い光を放つ

(1919「浴女たち」)最晩年の大作


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