「『生命の親様』望東尼」①

 元治元年(1864)8月、幕府は禁門の変で朝敵となった長州藩を征伐すべく、勅命を報じて軍勢を差し向けた。迫りくる征長軍を前に同藩の正義派(改革推進派)は行き詰まりを見せ、俗論派(保守派)が猛然と巻き返しを図る。身の危険を感じた高杉晋作は、萩城下を抜け出し福岡に亡命する。潜伏先は平尾山荘。所有者は野村望東尼(もとに)。このとき、晋作26歳、望東尼59歳。望東尼は福岡藩士の妻だったが、夫の死後仏門に入る。歌人で教養高く、勤王の志あつく、安政の大獄を逃れた勤王僧月照を匿うなど、尊攘派の志士たちを数多く庇護した。彼女の平尾山荘で晋作が過ごしたのはわずか10日。居間と客間と、わずか二部屋の狭い家に、二人は起居を共にした。後に晋作は望東尼のことを「生命の親様」と呼んだ。二人の間に何があったのか。望東尼の残した和歌を見よう。

  「冬深き雪のうちなる梅の花埋れながらも香やはかくるる」

 高杉は、長州の俗論派や征長軍を打倒するため、九州諸藩の軍事的援助を取り付けようと各地を遊説。しかしことごとく失敗。望東尼の前に現れた高杉は、落胆し憔悴しきった挫折者そのものの姿だった。しかし、彼女は「谷梅之助」と改名していた高杉を梅の花に譬え、深い雪の中にあっても梅の香は隠れることはないと、今は潜伏中の高杉の将来性に大きな期待を抱いている。しかし、その間にも、俗論派の支配する長州藩は、幕府への謝罪恭順の姿勢を示すため、禁門の変の責任者として三家老を自刃させ、四参謀を斬刑に処した。このままでは、有能な人材が失われ、長州は滅亡する。焦る晋作に、望東尼はこんな和歌を送る。

  「山口の花散りぬとも谷の梅開く春べを堪えてまたなむ」

 しかし、高杉は危険を顧みず長州へ帰る決意をする。旅立ちの日、望東尼は彼のために夜を徹して縫った着物に、和歌を添え餞別とした。

  「まごころをつくしのきぬは国の為たちかへるべき衣手にせよ」

 真心を尽くして縫った筑紫の着物は、お国のために戻っていくための袖にしなさいといっている。長州に戻った高杉は、功山寺でわずか80人で挙兵。しかし、勝利を重ね、奇兵隊、正義派の藩士たちを次々に立ち上がらせ、ついに俗論派の政府打倒に成功。その知らせを聞いた望東尼はこう詠んだ。

  「谷深み含(ふふ)みし梅のさきいづる風のたよりもかぐはしきかな」

 高杉の快挙を、つぼみのまま開かなかった梅が咲き出たと詠い、わがことのようにその歓びを表現している。 間違いなく、望東尼も維新の偉大な立役者の一人だった。

(望東尼を訪ねる高杉を描いた錦絵)

(博多郊外にある復元された平尾山荘)

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