「何を以てか歓娯を得ん」

若き日の高杉晋作の詩  

           「 百年一夢の如し             何を以てか歓娯を得ん

            自ら笑う平生の拙       区々として腐儒をまなぶ」   

( 百年生きたとしても人の一生は夢のようにはかない     

      そんな人生をどう生きれば喜び楽しく過ごせるのだろうか     

  普段の自分の下手な生き方を自ら笑うしかない     

  こせこせと役にも立たない古臭い儒学を学んでいる    ) 

 嘉永6年(1853年)晋作15歳の時、ペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれ200年来続いた太平の夢は破られる。安政元年(1854年)2月、父に従い江戸に赴いた16歳の晋作は、はからずも黒船騒動を体験。危機感を募らせて帰国後、明倫館に再入学。剣術だけでなくやっと学問にも打ち込み始める(もともと勉強嫌い。久坂玄瑞とはそこが大きく異なる)。しかし、学問に熱中すればするほど、形式的な解説を中心とする明倫館の授業に、物足りなさを感じ始める。その頃書いたのが上記の詩。自分の心が満たされない晋作は、新しい師を求め始める。そして親友久坂玄瑞から紹介されたのが吉田松陰だった。この時、晋作19歳。亡くなったのは29歳。わずか10年の間に、今も人々を魅了してやまない「粋な志士」(勝手に自分で名付けている)として激動の幕末日本で暴れまわった(「鼻輪のない暴れ牛」と呼ばれた)。

 そして死の間際に詠んだとされる、上の句だけの和歌

     「おもしろき ことも無き世に おもしろく・・・・・」

 高杉晋作を理解するカギは、彼を貫いていた「何を以てか歓娯を得ん」の想いではないか。心の底から喜び、笑い、悲しみ、泣くことができる人生、自身の全的感情を満足させ、そのためなら死も厭わないような生き方を求め続けた「求道者」(ただし禁欲的ではなく快楽的な)だったように思う。

(高杉晋作肖像写真)

(下関市功山寺  「高杉晋作挙兵騎馬像」)

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