「人心掌握術と表現力」
アウステルリッツの戦いの勝利の後、ナポレオンは兵士たちにこう呼びかけた。
「兵士たちよ、私は諸君に満足している。諸君はアウステルリッツの戦いにおいて、私が期待したとおりの勇敢さを示した。フランスに帰り、諸君が『私はアウステルリッツの戦いに参加した』と言えば、『ああ、この人は勇士だ』という答えが返ってくるだろう」
軍服、軍靴だけでなく、弾薬も糧食も欠くイタリア遠征軍の兵士たちに向かっては次のように檄をとばした。
「兵士諸君、諸君は裸だ、食べ物もない。政府は諸君に何も与えてくれない。わたしは諸君を世界で最も肥沃な平原に連れていく。諸君はそこで、名誉、栄光、富を得るであろう」
ナポレオンの訓示、演説、布告は兵士や民衆の心を動かし、士気や団結を高める原動力となった。しかし、一朝一夕にこのような力が身に付けられたわけではない。ナポレオンの出身はイタリア語圏のコルシカ島。10歳でシャンパーニュ地方にあるブリエンヌ幼年学校に入学したとき、彼のフランス語は外国人留学生なみだった。
「少年ナポレオンのフランス語はかわいそうなほど、たどたどしく、しかもイタリアなまりが強かった」(幼年学校からの学友ブリエンヌの回想)。
当然学業も振るわない。語学力の影響の少ない数学こそクラス1番だったが、パリ士官学校卒業時の成績も58名中42番。しかし、金銭的な貧しさのせいもあり、派手な級友たちとの交友を避け、休日や課外の時間は読書や作文をして過ごした。その頃のナポレオンの楽しみは、読書の中でギリシアやローマの英雄たちと親しく交わることだった。
「余が20歳に達せざるときは著述家になることを願った。余は少年時代より、読むこととともに、書くことを好み、詩や小説を書いた」と、セントヘレナで回想しているように、ナポレオンは17歳から26歳の間に、詩や小説・論説など、少なくとも10篇余の作品を書いている。こうして、彼は言葉の弱点を克服し、言葉や文章による表現力や説得力を磨き、軍事指導者、政治指導者として成功する強力な武器を身につけていったのである。言葉を重んじるエスプリの国フランスで、人々の心をつかむには、言葉に対する優れた能力が不可欠であることをナポレオンはどこかで気づいたに違いない。人間心理の洞察力に富んだ彼の言葉は、その並外れた人心掌握術の源であり、ナポレオンの魅力となり、魔力となった。
(兵士たちに迎えられるエルバ島から帰還したナポレオン)
(クデ「国務院の設置」ヴェルサイユ宮殿)第一執政ナポレオン
(読書するパリ士官学校時代のナポレオン)
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