「幸福の画家」ルノワール
1 3歳で磁器工房の絵付け仕事に従事するようになったルノワールは、機械化によって手書きの職人が不要になったため、17歳で工房をやめる。その後、扇の装飾、窓の日よけの装飾、カフェの壁絵の仕事で生計を立てながら、ルーヴル美術館での模写許可を受け、ロココ時代のヴァトーやブーシェの作品を研究。21歳の時には官立美術学校の「エコール・デ・ボザール」にも入学し、伝統的な技法を身に付ける。しかし、彼にとって何より大きかったのは、画家シャルル・グレールの自由画塾に入ったこと。ここでバジール、モネ、シスレーらのちに印象派と呼ばれるようになる学生たちと出会った。この画塾に入学直後、後にルノワール自身が「グレールを息もできないぐらい驚かしてやった」と語るやりとりがあった。
「(グレールが)私の画架の前まで来た・・・私は彼の教室に入って一週間目だった。一生懸命モデルを写生していたんだ。グレールは私のカンヴァスを見て、興味なさそうに言った。『君は、遊びで絵を描いているのかね』『むろんです』と私は答えた。『楽しくなんかなかったら、誓って絵なんか描きませんよ!』」
長い経済的困窮、画風確立のための模索(40~49歳)、リューマチ性関節炎(最初の発作は47歳の時)の進行。ルノワールの人生は、彼の絵のように明るくバラ色に彩られたものだけでは決してなかった。しかし、「途方もなく面白かったから絵を描いた」(画家アルベール・アンドレ)こと、死ぬまでその姿勢を貫いたこと。、それが「幸福の画家」ルノワールを生んだ。
(1918年【死の前年】ごろの写真) 一緒に写っているのはモデルのカトリーヌ・ヘスリング
(1876年 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 オルセー美術館)
(1881年 「舟遊びをする人たちの昼食」 ワシントン フィリップス・っコレクション)
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