ゴッホと「ジャポネズリー」

 鎖国(1639年~1858年)の間、日本にとって西洋諸国中唯一の交易国だったオランダ。そのオランダでゴッホは生まれ育った。1853年(日本に黒船来航!)生まれのゴッホ。南フランス・アルルのイメージが強いが、1886年33歳までオランダで過ごし1890年37歳で亡くなった。フランスでの生活はわずか4年に過ぎない。日本の鎖国中、オランダの日本に関する知識は、西洋の他の国々に比べて遥かに抜きん出ていた。ヨーロッパ初の民俗学博物館「ライデン国立民族学博物館」の当初の呼び名は“Museum Japonicum”(「日本博物館」)。創設目的がシーボルトの浮世絵を含む膨大な民俗学的資料(5000点)の陳列にあったからだ。「ハーグ王室宝物館」には出島の商館長や書記たちによる日本民俗コレクションが展示されていたし、アムステルダムやロッテルダムなどの港町では、日本から輸入された陶磁器や工芸品を随所で見ることができた。パリにへ向かう前年、ゴッホは弟テオにこんな手紙を書いている。

「 僕のアトリエはかなり耐えられる状態になってきた。特に大好きな日本の版画のコレクションを

 壁にピンで留めてからは。」

 しかし、ゴッホが向かったパリはすでに異国趣味的(エキゾティック)な興味からの日本の美術品などへの関心(「ジャポネズリー」)が高まっていた。開国した日本から、日本の美術品等が大量に流入したためだ。批評家・芸術家ザカリー・アストリュックは「美術、東方の帝国」(1867年)の中で、日本の美術品ブームについてこう書いている。

「 もっともつつましい絵冊子ですら高値で競りにかけられた。人々は商品の到着を待ち伏せて、あちこちの店を駆け回った。花瓶や布地や着物しか見つけられない時のなんという失望!しかし着物だってとても貴重な物なのだ。繊細な彫金細工をほどこした箱、彫刻をほどこした玩具、まばゆいばかりの模様で飾られた漆器、動物や魚や花の風変わりなブロンズが、法外な値段で飛ぶように売れた。素描はとりわけ画家や造詣の深い愛好家に適していた。」

 ホイッスラーやジェームズ・ティソの作品は、こう言った雰囲気をよく伝えている。

(ホイッスラー「金屏風」【1864年】)

  金屏風の前でうっとりと浮世絵に見入る着物姿の女

(ホイッスラー 「磁器の国の姫君」【1864年】)

 団扇、屏風、茣蓙(ござ)、陶磁器が描かれている。特に着物は、ただちに「日本人女性」に        変身できるアイテム だった。

(ジェームズ・ティソ「日本の品物を見る若い婦人たち」【1864年】)

精巧な船の工芸品に見入っている。背後には、人形が飾られた仏壇(奇妙な組み合わせ)も描かれている。

(ジェームズ・ティソ「湯浴みの日本娘」【1864年】)

豪奢な白の綸子(りんず)を纏った女性(まるで似合っていないが)。桜、障子、衝立も描かれている。 

(フィルマン・ジラール「日本の化粧」【1873年】)

 あふれかえる日本の美術工芸品、調度品

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