キャサリン・オブ・ブラガンザと紅茶、鎖国
イングリッシュ・ブレックファストと言えば紅茶。イギリスに紅茶文化がひろまったのはポルトガルからジェームズ2世に嫁いだ(1662年)一人の王女による。その名は、キャサリン・オブ・ブラガンザ。彼女が、持参金がわりにイギリスにもたらしたのが、植民地ボンベイと大量の中国茶だった。宮廷内で茶会が催されるようになり、貴族、上流階級の間で飲茶の習慣が広がっていった。
このキャサリン、実は日本の歴史とも深くかかわっている。江戸時代の日本。ヨーロッパとの唯一の窓口はオランダだったが、イギリスもそこに加わる可能性は十分にあったのだ。関ヶ原の戦いの半年前の1600年4月19日、オランダ船籍リーフデ号が豊後(今の大分県臼杵市黒島付近)に漂着。イエズス会宣教師から「リーフデ号は、交易船を襲う海賊船。乗組員らは処刑すべき!」と言われた五大老首座徳川家康は、自ら接見し海賊船ではないと判断。造船技師であったイギリス人ウィリアム・アダムズを外交顧問として雇う。彼は、伊東(伊豆)に造船ドックを建設。80t、120tの帆船を完成させ、相模の三浦郡に知行地を与えられ「三浦按針」と名乗るようになる。彼は、なんと250石の旗本になったのだ!1600年に設立されたイギリス東インド会社は、アダムズに貿易の可能性を打診。1623年、平戸にイギリス商館が設置される。しかし、家康の死(1616年)による外交方針の転換、貿易不振(オランダとの競争に敗北)もあって10年で閉鎖。その後、1673年イギリス東インド会社リターン号が長崎に入港し、通商再開を要求したが幕府は拒否。その根拠となったのが1662年の「オランダ風説書」(オランダ商館長が幕府に提出した海外事情の報告書)。そこには、こう書かれていた。
「今イギリス王[チャールズ2世]はポルトガル王の妹[キャサリン・オブ・ブラガンザ]と結婚するところで、それにより彼には結婚の持参金としてゴアとマカオが贈られる。」
ここには、オランダの巧みな情報操作が見られる。キャサリンの持参金は実際にはボンベイのみ。ゴア(ポルトガルのアジア植民地統治の拠点)やマカオ(日本に近い)を持ち出すことで日本に侵略の恐怖を与えようとしたのだ。こうしてオランダはイギリスの排除に成功。日本にとっての唯一の窓口、貿易相手国になったのだ。
(トワイニング 「レディ グレイ」)
真ん中の女性が、キャサリン・オブ・ブラガンザ
(キャサリン・オブ・ブラガンザ)
(三浦按針上陸記念公園 【大分県臼杵市黒島】)
漂着したリーフデ号の乗組員をむかえる佐志生(さしう)の人々が描かれている
航海士のオランダ人ヤン・ヨーステンも家康に仕え、屋敷も与えられた。その場所が、彼の名にちなんで名づけられた「八重洲」。
(ゴア、マカオと日本の位置関係)
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