世界と日本を変えた砂糖

 サマセット・モームは「イギリスで美味しい食事がしたければ、1日に3回朝食を取ればいい」と言ったが、世界に先駆けて産業革命を起こしたイギリスを支えたもの、それは朝食の中核「砂糖入り紅茶」だった。きちんとした台所がなくても、お湯さえ沸かせれば、簡単に用意でき、朝から十分なカロリーを補給し(砂糖)、ぱっちり目の醒めた状態(カフェインを含む紅茶)で働ける「砂糖入り紅茶」。それは産業革命後のイギリスで、都市労働者の生活条件、工場経営者の要求にぴったり一致する飲み物だった。

 この砂糖、実は日本の歴史も大きく変えた。幕末日本を動かした中心勢力は薩長、特に西郷隆盛、大久保利通を擁した薩摩だ。なぜ薩摩がそのように大きな力を持ち得たのか。それは島津斉彬の父島津斉興に仕えた調所広郷(ずしょひろさと)による藩政改革が「成功」したからだ。改革開始の時点で、薩摩藩は収入13万両に対して借金がなんと500万両。毎年の支出は19万両。調所に下された命令は「500万両の借金を亡くし50万両の準備金を作れ」だった。そして20年後、薩摩藩は150万両の準備金を持つに至った。それを可能にしたのは、借金の250年無利子返済(事実上の借金踏み倒し)と清国・琉球との密貿易(贋金づくりもやっていた!)、そして何と言っても大きかったのが三島(奄美大島・徳之島・喜界島)でとれるサトウキビから作る黒砂糖。調所はサトウキビの栽培から黒砂糖の販売までを完全に薩摩藩の管理下におく「専売制」をとり、莫大な利益を得た。しかしそれは、島民にとってはまさに「黒糖地獄」。黒糖つくりは米や麦などの穀物よりはるかに重労働。切り株が高かった(収穫量が減る)者や製品が粗悪だった者、決められた量を上納できなかった者は、首枷(くびかせ)や足枷をかけられて拘留され、密売が発覚すれば斬首か流刑に処せられた。子どもがサトウキビをかじっただけで鞭打たれた。西郷隆盛はそんな黒糖地獄の奄美大島で3年を過ごし、島妻愛加那と結婚し二人の子ども(菊次郎、菊草)をもうけた。

 このあとの沖永良部島での流人生活を含め5年間の南東方の島での生活を終え、元治元年2月28日、鹿児島にもどった西郷がまず行ったのは、三島の砂糖行政の改善に関する建白書の提出だった。4日後京に上り、3月18日には「軍事司令官」兼「諸藩応対係」に任命、薩摩藩の軍事外交の総指揮官になる。そして、倒幕運動の中心となって大久保利通とともに薩摩を牽引していく。西郷の存在は明治になってこう評された。「西郷一個は新政府より重い」と。その西郷が奄美の黒糖地獄を忘れることはなかったと思う。砂糖の歴史は重い。

(1727 ウィリアム・コリンズ「3人家族のお茶」)

まだティーカップに把手はない。カップに把手が付くのは1750年ごろ。 

(1715 ニコラス・フェリコリエ「ティー・パーティー」)

(「トワイニング」ロンドン ストランド通り)

イギリス最初の紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」として1717年に開店

(1751 ホガース「ジン横丁)

ジンに溺れて死に至る貧民たちの姿 が描かれている。18世紀前半、多くがアルコール中毒になり社会問題化。1751年「ジン規制法」が制定された。 

(1751 ホガース「ジン横丁)部分

(1870年代 工場での昼食)

(西郷隆盛の奄美大島での島妻愛加那)

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