「敬天愛人」

 明治3年(1870)7月27日、明治新政府の現状を痛烈に批判する意見書を集議院(明治2年、「身分出目に関わらず、全国庶民の意見を政治に取り入れる」ことを目的に設置された立法機関)の門前に掲げ、そこで切腹して果てた人物がいる。薩摩藩士横山安武(初代文部大臣森有礼の実兄)28歳。7月27日夕方、身なりを整え正装で現れた横山は、静かに門前に正座すると守衛に向かい、「これからここを汚すが、どうか勘弁して欲しい」と丁寧に挨拶。素早く懐をくつろげ、短刀を突き立てた。門前には腹から流れた血が池のように溜まっていたそうだ。横山の意見書の趣旨は概略こうである。

 政府首脳たちは奢侈に走り、下々の困窮ぶりがわかっていない。私利私欲を求める官吏も少なくない。政令も朝令暮改であるため、政府に疑心を持った万民が進むべき道に迷っている、と。

 この横山の憤りに共鳴同感し 、政府要人(参議)でありながら追悼碑を建立したが人物がいる。西郷隆盛である。安武の不満は西郷の不満でもあった。西郷はその言行録である『南洲翁遺訓』の中でこう語っている。

「維新というのに、政府首脳たちは立派な家屋を立て、洋服を着飾り、蓄財のことばかり。考えている。これでは維新の功業は成就しない。今となっては戊辰戦争という義戦も彼らが私利私欲を肥やすだけに終わった。国に対し、戦死者に対し面目が立たない」  

 ところで伊藤博文は、西郷についてこう語っている。

「西郷は度量があり徳望もあり、国を憂う心も深かったが、政治上の識見は乏しかった。大人物だったが、創業の人であって守成の人ではない。」  

 そのことは西郷自身わかっていたと思う。だから彼は戊辰戦争が終わると、とっとと鹿児島に引き込んでしまう。盟友の大久保利通が明治政府の土台作りのため東京で奔走していた頃、西郷は故郷の温泉で悠々自適の日々を過ごしていた。しかし、時代が彼を必要とした。彼を放っておかなかったのだ。征韓論、西南戦争。明治維新後の西郷の言動については賛否両論、議論が絶えない。しかし、かれ自身は維新前も維新後も全くぶれていない。彼の本質は「敬天愛人」(天を敬い人を愛する)。その意味は、『南洲翁遺訓』によれば、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」。西郷は、決して清廉潔白だけの人間ではない。薩摩藩邸焼き討ち事件だけとっても、必要とあらば謀略的手段も辞さなかった。しかし、大義を忘れることはなかった。そこを忘れたくない。

(肥後直熊「西郷隆盛肖像」黎明館[鹿児島市])

  西郷の末弟・小兵衛の夫人が「生き写し」と激賞した肖像画

(西郷隆盛が揮毫した「敬天愛人」)

(「薩摩藩邸焼き討ち事件」 を描いた「薩摩屋敷焼撃之図」)

(留守政府を預かる西郷は、次々に改革を実行)

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