肉食禁止と日本人
1872(明治5)年2月18日、大事件が起きた。白装束に身を固めた御岳行者10名が皇居に乱入。4名が射殺、1名が重症、5名が逮捕された。彼らの主張は「肉食再開は社会を混乱させる元凶!」「旧秩序を復活させろ!」というもの。なぜこのような事件が起こったのか?明治新政府は、肉食を解禁し、西洋料理を普及させることで体力的にも文化的にも、日本人の劣等感を払拭するために、肉食解禁を実行しようとした。しかし、「獣肉は穢れているから、食べると身も心も衣服も住居も穢れる」と考える人々が多く、政府はある手を打った。 それは、天皇に範を示してもらうこと。1872(明治5)年1月24日、明治天皇が宮中で自ら牛肉を食べて「文明人の仲間入りをするために、肉食せよ」と国民に示されたのだ。事件はこの肉食解禁宣言から25日後のこと。「穢れ思想」は根強かったのだ。
ところで、日本で肉食が禁止されたのは、奈良時代にさかのぼる。もちろん仏教の殺生禁止に由来。675(天武4)年、最初の肉食禁止令が出た。禁止対象は、牛、馬、犬、猿、鶏。その後対象は、猪、鹿にも拡大。以後1200年間の長きにわたって、日本人は肉食から遠ざかっていた。とは言ってもそれは表向き。場所や人によって公然とではなかったが肉食は行われてきた。川柳を3つほど。
①「狩場ほどぶつ積んで置く麹町」
「麹町」と言えば獣店のことをいうくらいで、あの5代将軍綱吉の「生類憐みの令」当時も営業を
続けていたという。
②「けだもの屋やまと言葉に書いておき」
猪は「牡丹」・「山鯨」、鹿は「紅葉(もみじ)」、馬は「桜」、牛は「冬牡丹」と隠語で表現
していたことをうたっている。
「文化文政年間より以来、江戸に獣肉売る店多く、高家(注:武家の名門)近侍(注:主君のそば近く
に仕える者)の士もこれをくらうあり。猪肉を山鯨と称し、鹿肉を紅葉と称す。熊・狼・狐・狸・
兎・鼬鼠・鼯鼠・猿などの類、獣店に満ちて、そこを過ぐるにたえず」
(小山田与清【1783~1847】『松屋筆記』)
「鼬鼠」は「いたち」、「鼯鼠」は「むささび」と読む。こんなものまで食べていたのだ、江戸の
人々は。
③「よかものさなどと壺からはさみ出し」
壺からはさみ出しているのは豚肉。九州では豚はまれではなく、長崎などでは毎日のように豚肉
を食べていたようだ。
徳川最後の将軍徳川慶喜。進取の気性に富み、たぶんに外国かぶれ。洋服を着て写真にも写っている。肉食、特に豚肉を好んで食べたことから「豚一将軍」とも呼ばれた(「一」は出身が「一橋家」のため)。今よりはるかに寒かった江戸の冬。庶民は、体が温まる、滋養になるからと、口実を設けて「薬喰い」と称して禁忌だった獣肉を食べた。最近足先が冷たい。きっと薬食いが不足しているに違いない。
広重『名所江戸百景 びくにはし雪中』
「山くじら」は猪肉を食べさせる店 「尾張屋」の看板。ちなみに、「〇やき」は焼芋屋。「十三里」は「栗(九里)より(四里)うまい」(九里+四里=十三里)のシャレ。
日本では初めて着用された軍服姿の慶喜。「詰襟学生服」のきっかけ となったとされる。ちなみに、この軍服を贈ったのは、ナポレオン3世。普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり失脚した、あのナポレオン・ボナパルトの甥である。今のパリの美しい街並みをつくった男。
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