「サロン」と美意識の変遷

 1863年当時のフランス、画家たちの唯一の公的な作品発表の場は、「サロン(官展)」のみ。したがって、画家にとって、この「サロン」に入選するかどうかは死活問題だった。この年、出品された作品は5000点。そのうち落選が3000点、入選数も激減。画家たちから審査への不満が高まる。皇帝ナポレオン3世の耳へもサロン審査の不公平を訴える声が届く。そこで皇帝はサロン落選者の作品を集めた展覧会、「落選者展」を開催する。この展覧会によって、画家たちはサロンの審査を経ることなく作品を直接公衆に提示する機会を持てるようになった。「印象派」誕生の遠因となる出来事だ。  

 ところで、1863年の入選作にアレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」がある。一糸まとわぬ裸体を無防備にさらけ出すなんとも艶めかしく官能的な作品。他方、落選者展で大スキャンダルを巻き起こした作品があった。マネの「草上の昼食」。彼は1865年の「オランピア」でも再びスキャンダルを引き起こす。カバネルの作品とマネの作品、同じ女性の裸体画でありながら何が違うのか?カバネルが描くのは、神話の世界の女神(ヴィーナス)、他方マネが描くのは現在の日常世界の女性。前者は美しく、後者は淫ら、それが当時のサロンの審査基準だった。ちなみに、カバネルの作品は、ナポレオン3世が買い上げ、カバネルはその年アカデミー会員に選ばれた。

 しかし、美の基準は不変ではない。パリ大改造、産業革命を背景に日常生活は激変し、マネがその誕生に決定的役割を果たした印象派絵画の幕開けは近い。

(マネ 「オランピア」オルセー美術館)

大スキャンダルを引き起こし、「最も醜い女!」「ここまで低級なら非難する言葉もない」 と言われた。

(マネ「草上の昼食」オルセー美術館)

嘲笑、罵声、怒号の嵐。皇帝ナポレオン3世も「みだら」と評した。

(カバネル「ヴィーナスの誕生」オルセー美術館)

マネの作品よりよほど、官能的で淫らに思うが。

(ボードリー「真珠と波」プラド美術館)

これも1863年サロンに入選。ナポレオン三世の妻ウジェニー皇妃が買い上げた。やはりヴィーナスを描いている。

(ドーミエの風刺画「ヴィーナスのサロン」) 当時の「サロン」の様子がわかる

「今年もやっぱりヴィーナスだよ! いつでもヴィーナスだ!こんな女しかいないみたいじゃないか!」

0コメント

  • 1000 / 1000