「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」12 最初の上京
文久3年(1863年)1月5日、慶喜は生まれて初めて京の地を踏むが、彼を待っていたのは、朝廷関係者や諸藩士・浪士による攘夷実行の督促だった。まず当時の京都の様子を見てみよう。
朝廷では、前年末(12月23日)に江戸から戻った三条実美が、徳川政権から勝ちとった成果を背景に、朝廷内で発言力を増していた。これには、前年12月に「国事御用掛」が設置されたことの影響が大きい。「国事御用掛」は、孝明天皇が、攘夷を推し進めると同時に政治を主導するべく、外交問題について、五摂家以外の家格の低い公家からも幅広く意見を求めるために役職で、「清華家」(せいがけ)の三条実美や「大臣家」の三条西季知(すえとも)といった家格の低い公家を含んだ29人が任命された。このような流れの中、三条実美は中・下級の公家も堂々と発言できるこの機をチャンスととらえ、孝明天皇が推し進める「攘夷」を声高に叫ぶようになる。そして、ほかの中・下級公家の攘夷派のリーダー的存在となっていくのである。
さらに、将軍家茂が上洛する1か月ほど前の文久3年(1863年)2月には「国事参政」(定員4人)と「国事寄人」(よりうど 定員10人)という新たな役職の設置が決定された。これは「国事御用掛」の精選や、「国事御用掛」よりも一層広く公家からの意見を求めることなどが名目で設置されたものだが、登用されたのはほぼ全員が三条実美や姉小路公知(あねがこうじきんとも)ら攘夷派。これは明らかに攘夷派が朝廷を牛耳るための組織であり、攘夷を実行しない徳川幕府に代わって攘夷を推進する政治組織づくりの一環であった。
また、当時の京都は事実上、長州・土佐両藩の支配下に入っていた。長州藩は、前年7月に藩論を「破約攘夷」に統一し、久坂玄瑞らが盛んに朝廷工作を行っていた。また土佐藩も、武市瑞山らが京都に続々とやってきて、長州藩士らと連携することで、攘夷運動の重要な一翼を担う存在となっていた。その結果、文久2年(1862年)11月から、京都の治安悪化を受けて、長土両藩士による京都市中の夜警が始まるなど、京とは実質的には長土両藩の支配下に入ることになった。当時、京で最大の軍勢を有していた京都守護職の松平容保(会津藩)は、文久2年の12月末に京に乗り込んできたが、当初は浪士をも含む急進攘夷派の志士に対して穏和な対応をとった。それを全面的に改めるのは、翌文久3年2月22日に、等持院に安置されていた足利尊氏以下三大の将軍の木造の首が急進攘夷派によって抜き取られ、三条の河原に晒される事件が発生してからのことだ。この行為が徳川将軍を想定したものと見てとった容保は、以後、慶喜などの慎重論を振り切って浪士の捕縛を強行し、つづいて、逮捕者の釈放を巡って、急進攘夷派との全面的な対決の途をたどる。
このような状況下の京に、将軍家茂が三代将軍家光以来、実に229年ぶりに到着したのは3月4日。3月7日、いよいよ将軍家茂が参内し、孝明天皇に謁見。これまでどおり「征夷将軍」職を委任するとの勅書が下ったが、それは勅書中に「事柄によっては朝廷から諸藩へ直接命令を下すこともある」と記されていたように、将軍への全面的な政務委任を表明したものではなかった。
さらに幕府を追い詰めたのは、文久3年3月11日に行われた孝明天皇の賀茂神社行幸。行幸の目的は攘夷祈願。武家の棟梁たる将軍が公卿衆の後方から騎馬で従う姿を晒したことは、京都町衆に、幕府の権威失墜をいよいよ印象付けた。さらに、4月11日にも同じく攘夷祈願を目的に石清水八幡宮への行幸が行われた。ここで天皇から家茂に、攘夷厳命の証として「攘夷の節刀」が与えられ、攘夷の詔が下される儀式が予定されていた。しかし、家茂は風による体調不良を理由に随行せず、代わりに慶喜が将軍代理として随行。しかし、八幡宮へ入ったものの今度は慶喜が腹痛を起こしたため(仮病と言われる)、結局、朝廷は「攘夷の節刀」を授けることができなかった。
「賀茂神社行幸絵巻」
「文久3年加茂神社行幸 将軍供奉之図」
貞秀「東海道之内 生麦」文久3年の将軍家茂の上洛
「源頼朝公上洛之図」将軍家茂の孝明天皇への謁見
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