「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」11 三条勅使

 慶喜、春嶽により取り組まれた「文久の幕政改革」だったが、少々の改革ではどうにもならない危機が、またも西からやってきた。二人を将軍後見職と政事総裁職に押し込んだその京都朝廷が、すぐに攘夷を実行せよと命じてきたのである。

 実は、島津久光と大原重徳が江戸へ行っていた留守に、京都の情勢はがらりと変わった。長井雅楽の「航海遠略策」を見捨てた長州藩は、京都で会議を開いて藩論を「破約攘夷」と定め、薩摩への対抗意識も手伝って、朝廷に強烈な攘夷論を吹き込む。土佐からは、武市瑞山を首領とする土佐勤王党が、若い藩主山内豊範(やまうち とよのり)をかついで入京、やはり攘夷論である。京都の空気は完全に攘夷即行派のものになる。文久2年(1862年)9月21日、このような京都から新しい勅使が東下することに決まる。正使は三条実美、副使は姉小路公知。これは、大原重徳が幕府に執拗に攘夷実行を迫ったものの、事態が進展しないことに苛立った長州・土佐両藩の藩士らが中心となって、朝廷に働きかけた結果浮上してきたものだった。そして、三条勅使の一行は、攘夷の実行を幕府に督促するために、10月12日に京都を出発し、江戸へと向かう。

 新たな勅使の派遣話が具体化する状況下、幕府部内では、この機会に根本的な考え方を確定しておこうとの議論が起こる。春嶽は、いったん条約を破棄し、その上で全国の大名を会して将来の国是を議論し、天下一致して積極開港の方向に踏み出そうと主張。幕府幹部は、条約破棄などできるわけがないと皆反対。では、慶喜の意見はどうだったか?慶永の条約破棄に猛烈に反対し開国論を唱えた。彼の考えはこうだ。これまでの条約が不正だというのは、国内的にはそうともみえるが、外国人との関係では、政府と政府との間で取り交わした条約であって、絶対に不正ではない。破棄は問題にならないし、そんなことで戦争になれば、仮に勝っても名誉にはならない。負けたらどういうことになろうか。諸大名を集めて会議しても、時勢のわからぬ愚論が百出すれば、幕府としては説明に手間がかかるだけだ。そんなことより自分が京都に行って天皇に説明する、と。

 慶喜の説を聞き、慶永も全面的に賛成。これで、幕議は、慶喜が上京して開国論を説くことにいったんは決まった。生命は危なかったかもしれないが、慶喜がこの姿勢を貫き通せば、後世の評価は、ずいぶんすっきりしたものになったに違いない。しかし、三条勅使の一行が江戸に近づくにつれ、話がだんだん面倒になってくる。慶永が、もし慶喜が上京して開国論を説き、それが通らなかった場合には、政権を返上するだけの覚悟があるのかと尋ねたのに対し、慶喜は反対する。慶永は、その覚悟があれば、幕府幹部に示して、それほどの決意を持って開国論を説くのだということを徹底させようと提案したのだが、慶喜は、政権返上の決意をバックに開港論を説くことには反対だった。そこまでの腹は定まっていない。慶永は、慶喜の開国論は老中たちと同じ「因循の開国」(「因循」=古い習慣にとらわれて改めようとしないこと)だと決めつけ、以前の破約攘夷論に逆戻りしてしまった。結局、慶喜も攘夷論に同意し、それとともに二人はあいついで辞意を表明するに至る(春嶽は10月13日、慶喜は10月20日)。

 その後、両者は将軍家茂の登営勧告を受けて復職。10月下旬に江戸に到着した三条勅使との交渉を経て、12月5日、家茂は攘夷決行を受諾する旨の奉答書を三条に提出する。ここに、いわゆる「奉勅攘夷」(勅命を報じて将軍および諸大名が攘夷を実行する)体制が成立することになった。もっとも、慶喜や春嶽が攘夷を命じる勅書を受け入れたのは、攘夷を行う「期限」について、ひとまず先送りとなったことが大きかった。つまり、「衆議」をつくしたうえで「策略等」を決定し、将軍が翌年上洛して、「委細」天皇に申し上げることになった。問題の解決は、将軍以下、慶喜・春嶽、それに老中らが京都に乗り込んで、最終的には図られることになったのである。

「徳川家茂」徳川記念財団

川村清雄「 徳川家茂」

三条実美

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