「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」16 冬(1)「海晏寺紅葉見之図」
江戸時代、紅葉の名所といえば下谷の「正燈寺(しょうとうじ)」と並んで品川の「海晏寺」が南北の双璧といわれた。しかし、浮世絵に描かれているのは圧倒的に「海晏寺」。
「秋の色とどまるところ海晏寺 」貞山
裏手が小高い丘になっていて海浜を望むのに絶好の場所、つまり紅葉と海景がセットで楽しめるまさに絵になる場所だったからだろう。この点、『江戸名所図会』「海晏寺紅葉見之図」は、あえて海の東側を望まず、高みから南~南西方向の内陸方向を眺めたものである。その意図するところは不明だが。
「江戸丹楓(「たんふう」紅葉した楓)の名勝にして一奇観たり。晩秋の頃は満庭錦繡を晒すが如く、海越(うみごし)の山々は紅の葉分(はわけ)に見えわたり、蒼海夕日に映じては又紅を濯(あら)ふが如く、書院僧房もその色にかがやき、この地遊賞の人醉食(すいしょく)ならざるはなし」(『江戸名所図会』「海晏寺」)
江戸端唄「海晏寺」でも、真間(弘法寺)はもちろん、奈良の竜田川や京の高尾(高雄)さえ及ばないほどの美しさだと謡っている。
「アレ 見やしゃんせ 海晏寺 真間よ 龍田が 高尾でも 及ぶまいぞえ 紅葉狩り」
現在、南品川の第一京浜沿いにある海晏寺。岩倉具視や松平春嶽の墓があるものの、とりたてて特徴のあるものもないが、江戸時代はその広大な庭に紅葉茶屋が設けられるなど、日帰りできる行楽地として多くの人で賑わった。現在、墓地になっている境内西側の高台が紅葉狩りの一大名所で、江戸の人々は弁当持参で紅葉と海岸風景の一日を楽しんだ。
ところでこの寺の歴史は古い。創建は鎌倉幕府五代執権の北条時頼の時代である。1251年(建長3年)、近くの海でサメが漁師の網にかかり、サメの腹から仏さまが出てきた。これが御本尊の鮫頭観音。これを聞いた時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。「鮫洲」の地名はこれがルーツという。
品川というと東海道の最初の宿場として江戸時代になって栄えたイメージが強いがその歴史は古い。中世以来、品川は江戸内湾(東京湾)有数の湊だった。目黒川河口付近にあったと考えられる品川湊は、紀伊半島・東海地方と関東を結ぶ太平洋海運と江戸内湾を経て、旧利根川水系・常陸川水系経由で北関東や東北へ続く流通路の結節点として栄えた。そのため、品川のまちには、関東への布教拠点として、各宗派の寺院が建てられた。現在、北品川・南品川にある寺院のほとんどはこの時期に建立されたものである。
では、次の川柳は何を詠んだものか?
「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」
「紅葉踏みわけるを母は悲しがり」
「紅葉狩聟(むこ)やるまいぞやるまいぞ」
品川は最初に飯盛女という名目で旅籠に遊女を置くことを許された宿場。明和9年(1772)定数500人の飯盛女が認められたが増え続け、天保14年(1843)には、女郎屋94軒、遊女1448人を数えた。品川が北の吉原に匹敵するほどの賑わいを見せたのは、近くに多くの行楽の名所がありそれを口実に出かける男たちが多かったこともその原因である。
最初の句は説明するまでもない。「海晏寺」は「潮干狩り」「御殿山」に置き換えても使えるだろう。二番目は『古今集』の猿丸太夫の有名な和歌がベース。
「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
最後の句は、娘夫婦の仲を心配する母の痛々しいまでの親心。そりゃあ聟が品川女郎に入れあげるなんて姿は見たかないだろう。
勝川春潮「海晏寺の楓狩」 これも珍しく海景を描いていない
『江戸名所図会』「晏寺紅葉見之図」
『江戸名所図会』「海晏寺」
広重「江戸名所」 「品川海晏寺紅葉見」
広重「東都名所 海案寺紅葉ノ図」
広重「江戸名所」 「品川海晏寺紅葉見」
広重、豊国「江戸自慢三十六興 海案寺紅葉」
二代広重「江戸名所四十八景 三十七 海案寺紅葉」
二代広重「三十六花撰 東京 海案寺楓」
勝川春章「吉原八景 せうとふじ乃晩鐘」 数少ない「正燈寺」の紅葉狩りを描いた作品
広重「名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし」
春信「紅葉狩り」 今なら大顰蹙
歌麿「絵本四季花 下 紅葉狩」
歌麿「江戸の花娘浄瑠璃 紅葉」
海晏寺(現在)
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