「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」17 冬(2)「二軒茶屋」①

 商人などの町人階級が経済力をつけるようになった明和年間(1764~72年)ころ、接待や会合に使われる場として、貸席に高級料理がつく料理茶屋が登場する。幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌、書画の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅を尽くすような料理茶屋が次々とできたが、浅草山谷の「八百善」と並んでその双璧といわれたのが深川の「平清」だった。「平清」は瀟洒な庭や風呂を備えた設備の豪華さや料理の質の高さで知られていた。この「平清」とともに深川で有名だった料理茶屋が「二軒茶屋」。『江戸名所図会』「富岡八幡宮」にこうある。

「当社門前一の華表(とりい)より内三、四町が間は、両側茶肆(ちゃや)・酒肉店(りようりや)軒を並べて、つねに絃歌の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りようりや)などありて、遊客絶えず。牡蠣(かき)・蜆(しじみ)・花蛤(はまぐり)・鰻魚(うなぎ)の類をこの地の名産とせり。」

 深川の料理茶屋は、江戸湾の魚介類や多種類の川魚を潤沢に得られて、江戸前の味を売り物にしていたが、いずれも遊女や芸者をよんで遊興のできる揚茶屋を兼ねていたことも大きな魅力だった。さらに、人気の秘密がもうひとつあった。

             「船頭のしこなして行く二軒茶屋」

          *「しこなす 為熟す」物なれた態度で接する

 「二軒茶屋」とは、富岡八幡宮境内にあった料理茶屋「松本」、「伊勢屋」のことだが、茶店のすぐ裏に船を着けそのまま案内を受けて屋敷内に入り込めた(『江戸名所図会』「富岡八幡宮 其二」を見るに、八幡宮本社の東北側に「二間茶屋」とあり「いせや」「松本」と記されている)。舟の船頭と馴染みが深く、客を送ってくると、茶屋の者と親しげに冗談を言って帰っていくといった他の遊里には無い情景が有った。

『江戸名所図会』「二軒茶屋雪中遊宴図」は広い庭一面の雪に戸を開け放して、火鉢と料理を囲んで雪見の宴を楽しむ様子が描かれている。挿絵の注記にこうある。

「此の地は、江都東南の佳境にして、月に花に四時の勝趣多かる中に、取りわきて初雪の頃などには都下の騒人ことに集い来つつ、亭中の静閑を賞し一杯を酌みかはしては酔興のあまり、冬籠もる梅の木の下、秋ならば尾花苅りたき、一夜の夢を結ぶもまた多かりぬべし」

江戸っ子にとっては四季の移ろいも楽しみの一つ。特にここ深川二軒茶屋には多くの雪見客が訪れた。初雪の頃は江戸の喧騒に疲れた人々が集い、酒を酌み交わしながら閑雅な風情を楽しんだという。絵の中で、雪化粧の庭園が見渡せる上座に座っているのは関取風の男性。富岡八幡宮は勧進相撲発祥の地(1684年に 幕府は 春秋2回の勧進相撲を行うことを許可し, 江戸では 富岡八幡宮の境内で興行されることになる。その後 深川八幡・芝神明・浅草大護院・市ヶ谷八幡など 江戸市内各地で行われたが, 1833年以降は 本所・回向院が勧進相撲の定場所となった。)ということもあり、力士を接待するには最適の場所だったようだ。手にしているのは「武蔵野」と呼ばれる大盃。名前の由来は、湯屋の看板の「弓矢(「湯に入る」→「ゆみいる」→「弓射る」)」と同じ。武蔵野の野は、「見つくされぬ」→「のみつくされぬ」→「飲み尽くされぬ」という洒落だ。今でも優勝力士は朱塗りの「武蔵野」で日本酒をぐいっと飲み干す。

下座に座って大きな火鉢を独占しているのが力士のパトロン(タニマチか)だろう。それにしても、雪見の席とは言え、これだけ雪が積もっている中、障子を四方開け放って寒くないわけはない。暖房器具は火鉢ひとつ。それでも、御膳を運んでいる女中は裸足だし、みんなそれほど厚着をしている風でもない。寒さは寒さで楽しむ。そんな江戸っ子から見れば、エアコンガンガンにかけて、半そでで過ごすなんて生活は野暮の骨頂に思えることだろう。

歌麿「深川の雪」

国貞「江戸名所百人美女 深川八幡」

広重「江戸高名会亭尽 深川八幡前 平清」

落合芳幾「春色三十六会席 深川 平清」

広重「東都深川富ヶ岡八幡宮境内全図」

『江戸舞所図会』「富岡八幡宮 其二」

『江戸名所図会』「二軒茶屋」

『絵本続江戸土産』深川八幡二軒茶屋の図

『絵本続江戸土産』二軒茶屋裏の船着き場

江戸切絵図 深川絵図

勝川春章「深川八景 二軒茶屋ノ暮雪」

豊原国周「開化三十六會席 深川 松本」

清長「風俗深川八景 土橋の帰帆」

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