「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」11 夏(2)「不忍池蓮見」②弁天島の茶屋
『江戸名所図会』の挿絵「不忍池 中島弁財天社」を見ると、弁天島の周りを囲むようにずらりと平屋が並んでいる。池の中に足場を作って柱を立て、水の上に張り出すように建てられていたため、土台が軟弱で二階建ては無理だったようだ。挿絵「不忍池 蓮見」は、その中の一軒の茶屋が舞台。挿絵の注にこうある。
「不忍池ハ江府(えど)第一の蓮池なり。夏月に至れバ荷葉(かよう。蓮の葉)累々として水上に蕃衍(はんえん。増え拡がること)し、花ハ紅白色をまじへ、芬々(ふんぷん。香り)人を襲ふ。蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)、凌晨(しののめ。明けがた)を殊更の清観とす。」
蓮の花は早朝に開花し、午前中に花を閉じつぼみの状態にもどる。挿絵では、池の蓮の花の一部がまだ咲いているので朝食の時間帯。中央の3人の男たちが食しているのは蓮飯だろう。3人の視線の先では、蓮飯に用いる蓮の巻葉を採っていると思われる蓮取り舟が見える。蓮は目、鼻、耳を刺激してくれるが、それだけじゃない。舌も楽しませてくれるのだ。「蓮飯」は、新しい蓮の葉に飯を包み、よく蒸して、葉の香りを移したもの(蓮の若葉を蒸して細かく刻み、塩と一緒に混ぜたものを言う場合もある)だが、蓮の葉を開くとパッと葉の香がたつ。身も心も綺麗になりそうな食べ物だ。注文を受けたら、客を待たせておいて採った蓮の香りは格別だったろう。
「五月にいたれば蓮飯と称して家毎にひさぐ。但し客を待せ置つつ舟に棹さし水中に僅(わずか)に茎立し蓮の巻葉を採刻みて飯に和す。その匂ひ大に格別也。これ此地の一品といふべし。」(大浄敬順『遊歴雑記』)
中央の男性の前の高脚繕には、杯が載っており、鉄製の酒器(銚子)を運ぶ女中さんも描かれている。風通しのよう開放的な空間で、朝から蓮見酒を楽しむ。夏の蒸し暑さをまるで感じさせない、なんともぜいたくで落ち着いた納涼風景。蓮見は、非日常的なゆったりした時間の流れに身をまかせながら、五感で楽しむ納涼だった。
挿絵の手前では、幼子が夢中になって池の亀や鯉を眺めている。不忍池は、供養のために魚鳥や亀などを放つ「放生池」(ほうじょうち)で、魚鳥をとることが禁止されていた。だか亀や鯉にとってはこの世の極楽浄土、繁殖し放題。そこに目をつけ、こっそり釣りをする輩も出没した(落語「唖の釣り」)。こうした不埒な輩を取り締まるため「山同心」(寺侍。江戸時代、門跡寺院など格式の高い寺に仕え、警護・寺務などにあたった武士)が見回りを行っていた。
「鯉鮒のこの世の池や蓮の花」許六
ところで、弁天島にあった茶屋はこのような料理茶屋だけではなかった。
「不忍の茶屋で忍んだ事をする」
「池の名に背いて蓮の茶屋へ来る」
「弁天を連れて蓮飯喰ひに行」
この茶屋はただの茶屋ではない。人目を忍ぶ男女密会の場、「出会茶屋」(今のラブホテル。湯島界隈にラブホテルが多いのは、その名残のようだ)だ。泊りはなく、料金は食事つきで1分(4分の1両。今の1万円以上)が相場。休憩利用だけでこんなに高いのだから、庶民が気軽に使える場所ではなかった。常連客は、大店の未亡人と若い番頭とか、江戸城の女中(国貞「江戸名所百人美女 志のはず弁天」)と歌舞伎役者など、金はあっても、世間をはばかるカップルたち。こんな川柳もある。
「蓮を見に息子を誘ういやな後家」
関係が進むと、隅田川の屋根付き船を利用したようだが、秘めた恋なら最初からこっちにすればいいと思うのだが。
広重「東都名所 不忍之池」
広重「江戸名所 不忍の池」
「江戸名所図会 不忍池 蓮見」部分
北斎「東都名所一覧 不忍池」
一景「東京名所四十八景 不忍弁天はす取」
歌麿画『画本 帆柱丸』 弁天島の出合茶屋で忍び会う男女。窓の外に蓮が見える。
男のセリフ「こう、互いに存分に忍びすまして、不忍池もいいじゃあねえか」
国貞「江戸名所百人美女 しのはづ弁天」
寛永寺に将軍や御台所の代理で参拝に来た江戸城の大奥女中たちが、帰りに弁天様にお参りすると言って、出会い茶屋に入ったようだ。お相手の多くは、上野にあるお寺の和解坊さんだったと言われる。絵の場面は、逢瀬を楽しんだ後、厠を済ませ、手を手水鉢の水で洗ったところ。表着を脱ぎ中着(大奥女中独特のファッション)姿で、使いきれなかった「みす紙」(別名「枕紙」。事後処理に使用)をくわえている姿がなんとも艶っぽい。
国貞「江戸名所百人美女 三縁山増上寺」 増上寺に代参するベテランの大奥女中
国貞「江戸名所百人美女 品川歩行新宿」 手に「みす紙」(「枕紙」)を持って、屏風の向こうで待つ客のもとへ
為永春水作、歌川国貞・渓斎英泉画『同房語艶以登家奈幾』(どうぼうごえんいとやなぎ)
屋根舟を密会の場として利用する男女。枕が二つ用意されている
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