「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」12 秋(1)「高輪海辺七月二十六夜待」

 「二十六夜待(にじゅうろくやまち)」(一般には「六夜待」といった)とは、特定の月齢の日に、精進潔斎して、月の出を待って拝礼する「月待」行事のひとつ。「十三夜」や「二十三夜」と同じように、主に女性が月そのものを崇拝し、子授けや子育てを願って続けられてきたものである。「二十六夜」は、旧暦の1月と7月の26日の夜に、月の出るのを待って拝む行事だが、この月は夜明け前の時間帯に東の空に現れる。正月は寒いので盛だったのは7月の方。

「今は七月のみにして、正月廿六夜は寒気にたえざるが故、拝するものなし」(『東都歳時記』「七月廿六日」)

 この行事が盛んだった理由は、この月の形に関係する。二十六夜月は三日月と逆向き、しかも横向き(この月を描いている絵は多くない。広重「江戸名所百人美女 高縄」、国貞「見立月尽 廿六夜 おぼう吉三 初代河原崎権十郎」、『江戸名所花暦』「品駅二十六夜」など。国貞「十二月ノ内 文月廿六夜待」などは、満月が描かれている。)。そこで月の出の際、月の先端の一つがまず現れ、続いて他方の先端が現れる。そして最後に本体が姿を見せ、これを三光と称し、阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)の化現とみた。そしてこれを拝むと幸運を得ると、現世利益の風潮を重んじる江戸の人々の支持を受けた。折りから初秋の爽やかさのなかで、徹夜で六夜待を行う群集が多く、江戸の名物に数えられていた。

   「秋涼し二十六夜の月の色」霜峨

 江戸で人々が群集するところとしては、品川・深川洲崎・湯島天満宮境内・飯田町九段坂・日暮里諏訪ノ社辺・目白不動尊境内などで、これらの中でも高輪海岸から品川へかけてが、最も賑わった。

 古くは信者だけが集まって、一晩中、念仏題目を唱えて月の出を待った。その様子は『東都歳時記』「七月廿六日」に描かれている。見晴らしのよい湯島天満宮境内の「松琴亭」という料理茶屋の光景だが、大勢の人が座敷に上がって、今しがた昇ってきた月に向かって両手を合わせている。ここに描かれている月よりも二十六夜月はもっと細いのだが。

しかし、時代を経るにつれて遊びが主となり、水茶屋が繁盛し、歌妓や芸人が集まり、菓子屋・虫売りなどの商人も出るようになった。

   「信心は半分憂さの捨てどころ」

 『江戸名所図会』「高輪海辺七月二十六夜待」を見てみよう。旧暦7月26日の夜明け前の時刻だが驚くほどの人の多さ。海岸にずらりと並ぶ茶店の列、いずれも人でいっぱいの盛況である。左手の「即席御料理」の看板のある料理茶屋の二階では酒宴の真最中。この日、芸人たちは酒楼に、招かれると鉦や拍子木を鳴らし、役者の声色を使う陰芝居や手踊り・写し絵などを仕組んだものを演じ、「一夜芸者」と言われた。高輪には大きな花街がなく、楽器のできる芸者や幇間(太鼓持ち)は少なかった。本来なら、他の町の座敷に出るともめるのだが、この日ばかりは、江戸の各地から呼び集められた。この店から、三味線・太鼓・鼓それに水干姿の巫女を交えた数人が出ていく様子も描かれている。

「江府の良賤兼日より約し置て、品川高輪の海亭に宴を儲け、歌舞吹弾の業を催するが故、都下の歌妓幇間女伶の属タグヒ群をなしてこの地に集ふ。或は船をうかべて飲食するものすくなからずして、絃歌水陸に喧し。.」(『東都歳時記』「七月廿六日」)

二十六夜月は日の出の時間帯に東の空に現れる。太陽とほぼ同時刻に、同方角に現れるので、目視するのが難しい。どうやら見えない三光を、見えた、見えたと強がっていたのが実情であった。 

   「六尊の弥陀を生酔拝むなり」(月が出るころには酔っ払って三尊が二重に見える)

   「あれあれと言ふと明るき六夜待ち」(見えたかなと思うともう明け方)

広重「東都名所高輪二十六夜待遊興之図

広重「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」左図

広重「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」中図

広重「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」右図

『江戸名所図会』「高輪海辺二十六夜待」

『東都歳時記』「湯島二十六夜待の図」

広重「新撰江戸名所 高輪廿六夜之図」

広重「東都名所之内 高輪廿六夜之図」

広重、豊国「江戸自慢三十六興 高輪高輪廿六夜」

広重「江戸名所百人美女 高縄」

 どこかの花街から来た芸者。コマ絵に二十六夜月が描かれている。

国貞「見立月尽 廿六夜 おぼう吉三 初代河原崎権十郎」  二十六夜月が描かれている

国貞「十二月ノ内 文月廿六夜待」 満月が描かれている

月の満ち欠け  右下から始まる

広重「東都名所 高輪全図」

『江戸切絵図』「芝高輪辺絵図」

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