「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」10 夏(2)「不忍池蓮見」①不忍池
不忍池は現在の上野公園の西南部にあるが、その歴史は古い。かつて東京湾の入江(上野台地と本郷台地の間)であったが、平安時代ごろ入江が後退した際に取り残されて池となったとされる。この池が江戸の人々の関心を集めるようになったのは、寛永寺ができ池の中に弁天島がつくられてからのようである。まずこのいきさつから見てみよう。
徳川幕府が開かれ、江戸が日本の中心に据えられるようになると、その場所を鎮護する必要が生じる。そこで選ばれたのが、江戸城の鬼門(艮【うしとら】丑と寅の間=北東)への寺院の造営。慈眼(じげん)大師こと天海僧正(1536-1643 家康・秀忠・家光が帰依した天台宗の僧侶)の誓願によって、寛永2年(1625)に寛永寺の本坊が創建される。寛永寺の山号は東叡山。東にある比叡山を意味する。比叡山延暦寺は、天台宗の総本山であり、天海は比叡山を江戸の地に移し替えることで、江戸城の鎮護とし、江戸という新興都市を権威付けようとしたわけだ。
天海は、ただ寺院のみを移し替えようとしたわけではない。比叡山の麓には琵琶湖があり、そこには竹生島(ちくぶじま)が浮かび、弁財天が祀られている。その構図全体を江戸に移入しようとした。不忍池を「琵琶湖」にするために、不忍池に中島を築き、弁財天を祀ることとなった(厳密には、それ以前より中島の北に小さな島があり、そこに弁財天が祀られていた)。天海僧正は不忍池の魚鳥をとることを禁止し、また供養のために魚鳥や亀などを放つ「放生池」(ほうじょうち)と定め、そこに紅白の蓮を植えた(現在は紅色の蓮、「紅蓮(ぐれん)」のみのようだが)。
このように不忍池は仏教的な要素を根底に持った、特権階級の所有物として誕生しながら、やがて庶民の憩いの場として発展していく。《吉野と桜》、《隅田川と都鳥》のような「歌枕」(和歌の中に古来多く詠みこまれた名所)と「景物(けいぶつ)」(「歌枕」に関連する自然物)の組み合わせのように、《不忍池と蓮》も新しい組み合わせとなっていく。
「東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す。広さ方十丁許り、池水深うして旱魃にも涸るることなし。殊に蓮多く、花の頃は紅白咲き乱れ、天女の宮居はさながら蓮(はちす)の上に湧出するが如く、その芬芳(かおり)遠近の人の袂を襲う。」(『江戸名所図会』「不忍池」)
蓮の花は、咲き始めてから4日目の午前中にすべて散る。咲くのは早朝だ。
「曉のめをさまさせよはすの花」(乙州[おとくに])
「花盛りのころは、朝まだきより遊客(ゆうかく)、開花を見んとて賑はふ。実に東雲(しののめ)のころは、匂ひことにかんばしく、また紅白の蓮花(れんげ)、朝日に映ずる光景(ありさま)、たとへんに物なし。」(『江戸名所花暦』「不忍池」)
*「朝まだき」夜の明けきらないころ 「東雲」夜が明けようとして東の空が明るくなってきたころ
蓮は花姿を楽しむだけでなく、心まで清めてくれるかのようなやさわやかな香気を楽しむ。
「はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄す池かな」(藤原定家)
「蓮の香やことに三日の朝ぼらけ」(存義) *「朝ぼらけ」夜のほのぼのと明けるころ
探梅も純粋に香りを楽しむ人々は、新しい着物を纏って夜出かけたようだが、蓮も夕涼みがてらその香りを味わうのもいい。
「夜の闇にひろがる蓮の匂ひ哉」(子規)
夏目漱石がこんな俳句を残しているが何を詠んだのか?
「ほのぼのと舟押し出すや蓮の中」
この「舟」は、「蓮見舟」。わざわざ舟を出したのは、花や香りを楽しむ以上に《蓮の開花音》を聞くことが目的だったようだ。「花が開くときにはポンっと音がする」と言われ、「開花音を聞けば,悟りが開ける,地獄に堕ちず成仏できる」などと言い伝えられてきた。実際には蓮の開花音があるわけではないようだが、蓮の花が咲き誇る中を進む蓮見舟。なんとも優雅な涼みだことか。
『江戸名所図会』「不忍池 中島弁財天社」
『江戸名所図会』「不忍池 中島弁財天社」
国直「新版浮絵 不忍弁天之図」
英泉「江戸名所尽 不忍池弁財天 蓮看之景」
広重「東都名所 上野不忍蓮池」
二代広重「三十六花撰 東京 不忍池蓮花」
揚州周延「倭風俗 不忍池畔の朝霞」
三代目広重「古今東京名所 不忍池公園 雨中の蓮見」
小林清親「不忍弁天社の朝景色」
藤島武二「不忍池月明」
ポール・ビニー「不忍の月」
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