「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」9 夏(1)「両国橋」④花火
通常の打ち上げ花火は、江戸前期から墨田川川筋で行われていたが、最初に両国の大花火が打ち上げられたのは享保18(1733)年5月28日、「川開き」の日のこと。この2年前の享保16年は旱ばつによって米は不作。翌享保17年は、イナゴの大量発生で西日本は大飢饉。江戸ではコレラが流行して多数の死者を出した。そのため、両国の料理茶屋が幕府に願い出て、「川施餓鬼」(「施餓鬼[せがき]」とは、死者の霊に飲食物を施すこと)を行い、慰霊のために花火を打ち上げた。打ち上げ花火独特の光と音が、悪霊を祓う祭りに必要な仕掛けだったのであろう。その際、両国周辺の料理屋や船遊びの客が花火を打ち上げさせたのが名物となり、8月28日の川仕舞いの日まで3カ月間、花火のパトロンさえつけば毎夜打ち上げられた。
『東都歳時記』は、両国の花火のすばらしさを次のように表現している。
「烟花(えんか。花火の中国語)空中に煥発(かんぱつ。光が四方に散る様子)し、雲のごとく、霞のごとく、月のごとく、星のごとく、麟(きりん。中国の想像上の獣「麒麟」のこと)の翔るがごとく、鳳(おおとり。古代中国で、徳のすぐれた天子の世に現れると伝えられる想像上の霊鳥。鳳凰)の舞うがごとく、千状万態(いろいろな姿やかたち)、神まどい魂うばわる。凡そここに遊ぶ人、貴となく賤となく、一擲千金(いってきせんきん。一度に惜しげなく大金を使うこと)惜まざるも宜(よき)なり。実に宇宙最第一の壮観ともいいつべし。」
両国橋近辺で大々的に花火が打ち上げられるようになり、川開きの間の隅田川は屋形船や屋根船でごった返した。しかし、納涼船の船賃は安くない。屋根船でも、船頭一人乗りで一人300文(裏長屋の店賃=家賃の相場)、二人乗りで400文程度だった。庶民は、花火見物も見物料ただの橋の上。特等席はもちろん両国橋。押すな押すなの大混雑になった。
「千人が手を欄干や橋すずみ」(其角)
「この人数舟なればこそ涼(すずみ)哉」(其角)
花火は、仕込みに手間がかかり冬の間から取りかかって時間をかけて作られる。当然高価になる。一発の相場は一両。一両が一瞬のうちに消えるさまを詠んだ次の句も其角作。
「壱両が花火間もなき光かな」
だから花火のスポンサーになるには、相当な金が必要だったが、「残るものにはお金をかけず、消えてしまうものにはお金をかける」のが江戸っ子の心意気。こんな狂歌もある。
「ここに来て金はおしまじ両国の 橋のつめには火をともせとも」
(「橋の詰(つめ)」と「「爪(つめ)に火をともす」をかけている」)
一瞬の光の美しさにお金をつぎ込む江戸っ子の精神は、実利主義一点張りの上方の人々には理解できなかった。実際、淀川や鴨川で花火が打ち上げられたのは、明治も中期以降のことだった。
江戸時代の花火は、今の花火と比較すると極めて地味。色は、金色、オレンジ色、赤色しかなかった。上がり方も、派手な大輪を描く花火ではなく、シュルシュルと放物線を描いて落ちていく「流星」という花火が主流。花火が円形に開くのは明治7(1874)年以降、色が多様になるのは明治20(1887)年以降になってからのことである。
ところで、『江戸名所図会』「両国橋」挿絵では、橋の両側で花火が上がっているが、両国橋をはさんで下流が「鍵屋」、上流が鍵屋から暖簾分けした「玉屋」の持ち場だった。人びとは口々に「鍵屋ぁ~」「玉屋ぁ~」と声をかけ、夜空を舞台に繰り広げられる花火の饗宴に酔いしれた。花火が上がった時のかけ声はなぜか後発の玉屋の方が多かったと言われるが、天保14(1843)年、12代将軍家慶の日光参詣の時、玉屋は火を出し江戸所払いになってしまう。両者の競演は、わずか30数年間のことだった。
貞房「東都両国夕涼之図」 花火見物の人々で埋め尽くされた両国橋
貞房「東都両国夕涼之図」部分
豊国「両国花火の図」 花火見物の人々で埋め尽くされた両国橋
橋本貞秀「三都涼之図 東都両國ばし夏景色」
橋本貞秀「三都涼之図 東都両國ばし夏景色」 花火見物の人々で埋め尽くされた両国橋
『江戸名所図会』「両国橋」
歌川豊春「新版浮絵 東都両国橋繁花の図」
広重「江戸名所 両国花火」
広重「江戸名所 両国橋花火」
広重「江戸名所三つの眺め 両国夏の月」
広重「江戸名勝図会 両国橋」
広重「東都八景 両国の夕照」
広重「東都名所 両国花火」
広重「名所江戸百景 両国花火」
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