「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」7 夏(1)「両国橋」②両国広小路

 『江戸名所図会』「両国橋」を見てみよう。東西の両国橋畔は両国広小路。橋の手前が両国西広小路、向うが両国東広小路。多くの店が描かれているが、もちろん広小路は火除地であったから、常設の店舗は許されなかった。いざという時に短時間で片付けられる、仮設の床見世とか露店で営業した。両国広小路は東西ともに、遅くとも元禄期には盛り場的様相を呈し始め、享保期に、盛り場として本格的に展開し、田沼期には江戸を代表する盛り場になっていた。

 挿絵の西広小路右手を見ると、「土弓」の文字が見える。これは盛り場や寺社の境内などに多かった「矢場」(「楊弓場」)。「楊弓場」では客寄せのために美しい女を「矢取り女」として置き、客引きを競った。

   「小当りの的になってる矢場娘」  「的よりも矢取をねらう楊弓場」

矢場娘は四つん這いになって矢を回収に行くとき、ことさらに尻を突き出し、客をさそった。表向きは、遊技場の形式をとってはいるが、「矢取り女」は実際は客を取って売春をしていた。

 挿絵には「かるわざ」の文字も見える。「軽業」(かるわざ)は鍛錬した肉体をつかう見世物で最も盛んだった。綱渡りを主体に、青竹登り・乱杭渡り・籠抜け・ブランコなど、今のサーカスに似た演目。軽業の名人と謳われた早竹虎吉は大坂の人。安政3年(1856)に一座を率いて両国で興行、歌舞伎ばりの演目で大評判になったが、針金で吊っていたのがバレて帰坂せざるを得なかった。

 また竹沢藤次は曲独楽の名人で江戸下谷の人。弘化元年(1844)の西両国興行が空前の大当たりとなり、知らぬ人のない存在となった。その人気は、何と言っても華やかで人目をひく演出にあり、種々の大仕掛けのほか、水芸、からくり、手品、また宙返りなどの軽業的要素も加えて、それまでにない曲独楽ショーをつくり上げた。

 珍獣の見世物も多かった。文政4年(1821)にオランダ船がラクダを長崎に舶載し、西両国で文政7年(1824)に見世物となり、話題騒然となった。アラビア産のヒトコブラクダ二頭の牡牝を、日本人が唐人の格好をして連れ歩き、鉄鼓(トライアングル)などをかき鳴らして、異国気分を盛り上げた。また、珍獣にして霊獣のラクダには、ひと目見るだけで疱瘡麻疹除けになるなど、ありがたい「ご利益」があるといわれた。

万延元年(1860)にはヒョウが西両国で見世物になった。そこでは、見物人から希望があれば、銭700文ほどで鶏一羽を買い取らせ、ヒョウがその鶏の生餌を食べるところを見せた。幕末期以降は従来の長崎に代わり、横浜新港が動物到来のルートとなり、珍獣舶来ラッシュがおこり、4年ほどの間にヒョウ、トラ、フタコブラクダ、インドゾウが次々とやってくる。文久2年(1862)には、アメリカ商船がマラッカからインドゾウを横浜にもたらし、翌文久3年3月から西両国で見世物となった。幕末の珍獣舶来ラッシュの中でも、最大のヒット興業となり、たちまちゾウを描いた20点ほどの浮世絵が出版された。その中には、「一度(ひとたび)この霊獣を見る者は七難を即滅し七福を生ず」などの文句が記されている。

 両国には、猥雑さを売り物にする見世物小屋が溢れていた。男女和合を演ずるストリップショーまであった。こんな両国の盛り場を人びとは大いに楽しんだ。そんな人々を平賀源内は、『根南志具佐(ねなしぐさ)』の中で生き生きと描いた。大げさな表現だが、両国の賑わいぶりが伝わってくる。

「僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めける、町ものの当世姿、・・・さまざまの風俗、色々の顔つき、押しわけられぬ人群集(くんじゅ)は、諸国の人家を空(むなしく)して来るかと思はれ、ごみ、ほこりの空に満つるは、世界の雲も此処より生ずる心地ぞせらる」

歌川国郷「東都名所両国繁栄河開之図」

『江戸名所図会』「両国橋」西両国

北尾重政画『絵本吾妻花』楊弓

一片舎南竜 作,子興 画『間合俗物譬問答』 (まにあわせ ぞくぶつ たとえ もんどう)

鈴木春信「矢場の女たち」

国芳「両ごく大曲馬の賑ひ」

二代国貞「大阪下り 早竹虎吉 月」

歌川芳晴「牛若 米吉 僧正坊 大阪下り 早竹虎吉」

国芳「竹沢藤次 殺生石」

国安「駱駝之図」

江南亭唐立作・歌川国安画『和合駱駝之世界』小屋前のにぎわい

歌川芳豊「西両国に於いて興行」 豹

歌川芳豊「天竺渡リ 大象之図」

0コメント

  • 1000 / 1000