「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」6 夏(1)「両国橋」①両国橋

 現在、墨田川には「千住大橋」から「築地大橋」まで18もの橋が架かっているが、江戸時代には五つの橋しか架橋は認められていなかった。最初に架けられたのは、文禄三年(1594)の「千住大橋」。徳川家康が江戸に入府して間もない頃には、江戸の防備上、隅田川にはこれ以外の架橋を認めなかった。千住大橋は、奥州街道を渡す橋であり、東北の伊達氏をにらむ戦略上の必要から、架橋を急いだものとされている。

 万治二年(1659)、二番目にかけられたのが「両国橋」。寛永末頃(1630~40)になると、隅田川左岸の深川方面へ都市江戸の拡大が始まり、明暦三年(1657)の明暦の大火の際に、浅草御門周辺で逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、この周辺だけで2万人もの溺死者、焼死者をだしてしまう。この事態を重く見た幕府は、防火・防災目的のための都市整備の一環として両国橋を建設したのである。架橋により市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地(ひよけち)としての役割も担った。この頃には徳川の支配も安定し、江戸の戦略上架橋しない理由はほとんどなくなっていた。さらに元禄年間に入ると、「新大橋」と「永代橋」が、安永三年(1774)には「吾妻橋」が架けられた。

 次の川柳は何を詠んだものか?

   「深川の文には二文添えて遣(や)り」

 これは両国橋ではなく永代橋が関わっている。深川に行くに使ったのは永代橋。ここを渡るには橋銭二文を徴収されたため、文使いにその分を足して渡したことを詠んだ川柳だ。この通行量の橋銭については曲亭馬琴『兎園小説余録』にこんな記述がある。

「橋の南北の詰に板壁の小屋をしつらひて、番人二人居り、笊(ざる)に長き竹の柄を付けたるを持ちて、武士・医師・出家・神主の外は、一人別に橋を渡る者より二銭づつ取りけり。橋を渡らんとすれば、くだんの笊を差出すに、その人、銭を笊に投入れて渡れり」

 実は、両国橋より後に架けられた新大橋、永代橋、吾妻橋はいずれも通行料である橋銭を徴収した。事情はこうだ。両国橋は「御入用橋」といって、幕府が普請工事の全額を負担する橋であり、通行料も取らなかった。ただし、本橋の修復工事期間中だけは、臨時の仮橋が町人らの請負工事で架けられたため、彼ら請負人の収入源として橋銭が徴収された。この修復工事、焼失のためとか、出水流失のためとか、老朽破損のためなどの理由により、18世紀だけでも1742年、1755年、1759年、1774年、1780年、1786年、1793年、1796年と、頻繁に行われた。このように両国橋は、幕府にとって大いなる金食い虫だったのだ。新大橋、永代橋も、近世前期までは両国橋と同様、幕府が修復工事費を負担する橋であったが、橋の維持費があまりにかさむので、両国橋の費用は幕府負担とするが、あとの新大橋と永代橋は廃橋にしようという議論がなされた。しかし両橋の両岸の町人らの陳情により、いずれも町人たちが橋の管理・修復をするということで、辛うじて廃橋を免れることができた。そのため新大橋と永代橋では、通行料である橋銭の徴収が始まった。さらに1774年に浅草から対岸の本所へ架けられた吾妻橋(大川橋)は、橋銭二文を渡橋者から徴収し、橋の維持費に充てるという架橋請負町人の願い出が許可されてつくられた。これら三橋の橋銭が撤廃されるのは1809年のこと。江戸の十組問屋仲間が三橋会所を設立し、三つの橋の架け替え・修理を請負うことになったからだ。

 以上のように、橋の維持・管理は実に大変だった。そのため、江戸の主な橋は、火災による消失や、大水による流失がないよう、平素から火防・水防対策に意が用いられた。特に重要な橋の両側の橋詰には火除地(「広小路」とも呼ばれた)を設け、できるだけ橋に火が及ばないようにした。両国橋の東西の橋詰にも、創架と同時に広小路が設けられた。大勢の人が往来するこの広小路、商売を始める者が現れるのは当然。髪結床とか水茶屋といった床見世が立ち並び、大勢の辻商人が露店をひろげるようになったのは、両国橋の創架からそれほど時を経ていなかった。

国虎「江戸両国橋夕涼大花火之図」

『江戸名所図会』「両国橋」

広重「東都名所 両国夕涼」

安政六年(1859)分間江戸大絵図より両国橋辺り

国貞「東都両国橋 川開繁栄図(かわびらきはんえいのづ)」

広重「江戸名所 両国橋花火」

広重「江都名所 両国橋納涼」

広重「東都八景 両国の夕照」

広重「東都名所 永代橋全図」

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