「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」4 春(2)「梅屋敷」②

 江戸時代の花見は“梅に始まり菊に終わる”と言われた。そして春の花見は三種類あった。最初が「梅見」で、次が「桜見」そして締めが「桃見」で、この三つをクリアして春が成就したと、江戸の人々は感じていたようだ。

 江戸時代、亀戸梅屋敷に江戸第一の名木と評判の梅の木があった。その名は「臥龍梅」(がりょうばい)。水戸光圀が命名したと伝えられている。

「実に龍の臥したるがごとく、枝はたれて地中にいりて、また地をはなれ、いづれを幹ともさだめがたし。」(『江戸名所花暦』)

 高さは一丈(約3メートル)くらいのもの。しかし、根元の太さは五尺余(約1.6メートル)で、枝は四方に広がって、直径はおよそ六間(約11メートル)にも及んだ。

「白雲の 龍をつつむや 梅の花」(嵐雪)

 嵐雪は、白雲のようなまわりの満開の梅が、臥龍梅という竜を包んでいるように見えることを詠んだ。

 露沾(ろせん)はその姿を見事に形容した。   

  「登る花 くだる花もや 臥龍梅」

 素丸(そまる)は、その素晴らしい香りが消えないことを願ってユーモアあふれる句にした。

 「この梅に 散らぬ鍼(はり)する 人もがな」

 「臥龍梅」があった亀戸梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所だった。もとは本所埋堀(うめぼり)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で「清香庵」としていたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになった。『江戸名所図会』「梅屋敷」にも挿絵一杯に、見事に梅の花が咲いている。「臥竜梅」が有名になったこともあり、二町四方の敷地に立錐の余地なく梅を植え込んでおり、嵐雪の句そのままの梅園の情景が描かれている。しかし、「臥竜梅」をこの挿絵で特定することはできない。

 この「臥龍梅」、実は外国でも結構知られている。歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」をゴッホが模写(「花咲く梅の木」)したからだ。広重は、画面手前に梅の枝を大胆に配置した対角線構図、「前景ー後景」対比といった印象派の画家たちに多大な影響を及ぼした構図をとっている。ゴッホはトレース素描まで行ってその構図はそのまま採用したが、色彩は原画から自由にゴッホらしく表現。さらに画面左右に漢字を配置し、エキゾチックな効果も加えている。

 『江戸名所図会』「梅屋敷」の挿絵を見ると、玄関先で何かを売っているようだが、梅干しだろう。

   「梅干を見知て居か梅の花」(嵐雪)

味がいいのでここに遊賞する人は必ず買って家土産にしたようだ。江戸時代には、梅干しを使った加工品として「煎酒(いりざけ)」がよく用いられた。煎酒は醤油が普及する以前に、刺身やなますの調味料として、また、煮物その他にも広く使われていた調味料。古酒に削った鰹節と梅干、たまり少量を加えて煮詰めて漉して作り、白身魚の刺身には醤油よりもよく合いおいしい。

 亀戸梅屋敷は現存しない。明治四十三年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となってしまった。

 ところで、江戸時代、梅の季節になると、裕福な商人や文人墨客は屋根船に乗り込み、春景色をめでながら、深川・本所の掘割を通って亀戸へ通った。帰りは「大七」、「葛西太郎」などの料理茶屋で食事をする文人墨客もあり、梅見は生活にゆとりのある層の、きわめた風雅な遊びであった。では、次の川柳は何を意味しているか?

   「洗い鯉 謀叛の起こる 処なり」

 向島の料理茶屋「大七」の名物は鯉の洗い。これは精力がつく。食べて元気モリモリになるとにわかに想定外の行動に出たくなる。目指すは隅田川の向う岸、そう吉原。これを「謀叛」と表現したのだ。 

豊国「江戸東都錦絵 亀戸梅屋敷」

歌川広重「東都名所亀戸梅屋舗全図」

『江戸名所図会』「梅屋敷」

広重「江戸名所 亀戸梅屋敷」  「臥龍梅」

渓斉英泉「江戸名所尽 梅屋敷臥龍楳開花ノ図」  入口付近

広重「江戸名所 亀戸梅屋敷」

広重「東都名所 亀戸梅屋敷ノ図」

広重「江戸名所 亀戸梅屋舗」  暗い中での梅見

広重「江戸むらさき名所源氏 見立梅が枝」  楽しみ方いろいろ

国貞「江戸名所百人美女 梅やしき」

広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」

ゴッホ「花咲く梅の木」ゴッホ美術館

0コメント

  • 1000 / 1000