「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」2 春(1)「元旦諸侯御登城之図」②

 『東都歳時記』も元旦の大名登城の様子を描いている(「元旦諸侯御登城図」)。『江戸名所図会』「元旦諸侯御登城之図」と比べると、こちらの方が俯瞰的で元旦登城の雰囲気がより伝わってくる。四方から何組もの大名行列が集まってくる様子がわかるが、江戸城付近ではどれほどの混雑ぶりだったことか。堀端や屋敷の塀に沿って点々と等間隔に並んでいるものは「盛砂(もりすな)」。白砂を円錐状に盛り高めたもので清浄の意をあらわす。

 大名が城内に入るために利用したのは大手門や内桜田門だが、その付近を描いたのが楊洲周延『千代田御表(ちよだのおんおもて)正月元日諸侯登城桔梗下馬』。「桔梗」とは、「桔梗門」すなわち「内桜田門」のこと。この門の前には「下馬」札という馬から下りることを指示する札が立っており、大名たちはここに大勢の家来を残し、少数の供(10万石の大名で12人ほど)だけ連れて登城する。残された従者たちは、寒空の下ただひたすら主が戻ってくるまで「下馬先」(門の前)で待っていなければならない。武士集団のこと、さぞ整然と待機していたことと思いきやとんでもない。確かに1889(明治22)年に旧幕臣が刊行した『徳川盛世録』の挿図「式日大手登城の図」では、大手門に向かって粛々と進む行列と、茣蓙(ござ)をひき、整列して主人を待つ従者たちが描かれているが、これはフィクションのようだ。「江戸城登城風景図屏風」(1847【弘化4】年7月)を見てみよう。一番左が江戸城の伏見櫓、右が内桜田門。門に向かう行列は、岡山藩(第一扇)、福岡藩(第四扇)、久留米藩(第五扇)、鳥取藩(第六扇)、薩摩藩・出雲藩(第七扇)、仙台藩(第八扇)と、いずれも徳川家門、および外様の大藩。しかし、待機する従者たちは、のびをする者、寝そべって居眠りをする者、酒を酌み交わす者、遊技(博打か)に興じる者など自由気まま。行儀良く主人を待つ者など皆無といっていい。実は従者たちのうち、中間や足軽には、江戸で雇用された者も少なくなかった。明治時代の聞き書きには、彼らは奉公先を転々とする「渡り者」で、主人の帰りを待つ間は、「賭博が開ける、雑言の争い、歌を唄う者、寝反る者、目も当てられませぬ」と記されている(篠田鉱造『幕末百話』1996年)。

 また、残された家臣たち相手に商いをする人びとが集まり(煮売り屋を禁止するなどの御触れがだされたが、幕末までこうした商人たちの姿が消えることはなかった)、飲み食いしたり、退屈しのぎに評判・噂話に花をさかせた。ここから生まれた言葉が「下馬評」。また、元旦登城に限らず登城行列の様子は江戸名物のひとつで、わざわざ見物に来るものも多く、登城日の江戸城大手門前は江戸の観光名所として賑わった。江戸っ子だけでなく、地方から江戸へやって来ていた旅行者も大勢見物に来ていたのである。

 本丸御殿に上がれるのは大名だけだが、大手門から御殿まで、大名がひとりになる経過はこうだ。まず大手門は、どの大名も駕籠に乗ったまま通れたが、150mほど先にある大手三之門はそうはいかない。三之門の前には堀が走っており、橋(下乗橋)が架けられていたが手前に「下乗(げじょう)」札が立っていた。ここで、御三家(と日光東照宮のトップである輪王寺宮)以外の大名は駕籠から降りなければならない。下乗橋の近くには、同心番所が置かれ、下乗橋を通って三之門を通れる人数がチェックされた。三之門を通ると、今度は百人番所が現れる。甲賀組、根来組、伊賀組、廿五騎組の四組(各組の同心の数は百人)が交代で詰めていた。百人番所を過ぎると中之門が現れるが、その前に大番所があった。それまで駕籠のまま進めた御三家や日光輪王寺宮も、ここで駕籠から降り、徒歩で御殿に向かわなければならなかった。本丸への入口に立つ中雀門を潜ると、ようやく本丸御殿の玄関が現れる。玄関に上がる際、大名は腰に差した両刀のうち大刀を抜いて、供侍の一人(刀番)に預けた。草履は草履取りに預けた。刀番も草履取りも、大名が拝謁の儀式が終了し戻ってくるまで玄関の外で待つことになる。玄関からは大名一人でそれぞれの控室に行くことになる。

 剣と帽子さえ身につけていれば誰でも入ることができた(この二つも入口で借りられた)ヴェルサイユ宮殿などとはいかに違っていたかがよくわかる。

楊洲周延『千代田御表』「正月元日諸侯登城 御玄関前之図」

『東都歳時記』「元旦諸侯御登城図」

楊洲周延『千代田御表』「正月元日諸侯登城 桔梗下馬」

楊洲周延『千代田御表』「将軍宣下為祝賀諸侯大礼行列ノ図」

「江戸城登城風景図屏風」

「江戸城登城風景図屏風」部分

「江戸城登城風景図屏風」部分

「江戸城登城風景図屏風」部分

江戸城大手門(現在)

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