「『江戸名所図会』でたどる江戸の四季」1 春(1)「元旦諸侯御登城之図」①
『江戸名所図会』(えどめいしょずえ)は、7巻20冊からなる絵入りの江戸地誌。神田雉子町の名主斎藤幸雄(ゆきお)が寛政年間(1789年―1801年)に編集に着手,その子幸孝(ゆきたか),孫幸成(ゆきしげ)【斎藤月岑(げっしん)】を経て,1834年前半10冊,1836年後半10冊を刊行。絵は長谷川雪旦(せったん)。江戸府内および武蔵野近郊の神社・仏閣、名所古跡の沿革と現状を実地検証によって記述し、その史料的価値は高い。ことに風俗、行事、景観を伝える雪旦の画(え)は、実地の写生であって精緻を極めた描写が多く、文化・文政期(1804~30)から天保期(1830~44)にかけての江戸の生活史料としても好適である。1780年刊行の『都名所図会』以来,同種のものは数十種あるが,内容,挿絵とも本書が第一とされる。
この『江戸名所図会』の中から、季節感あふれる12枚の絵を取り上げ当時の江戸風俗について考えてみたい。まずは、「元旦諸侯登城之図」。
当時も今と変わらず、江戸の元日は大晦日の喧騒が嘘のように静かに開けた。
「元日は一夜のことで静かなり」
徹夜だった商家では、朝の雑煮を祝った後は大戸をおろして寝正月。
「元日は目が覚めてから日が暮れる」
高輪、洲崎、愛宕山、湯島など初日の出を拝もうと夜明け前から詰めかけた人たちで賑わった場所もあったが、町中はほとんどの家は戸を閉ざし、人気のない通りの辻で店を開いていたのは葦簀張りの凧売りだけだった。しかし、江戸城大手門周辺は違っていた。
「責める防ぐの中下に下になり」
これは、商家の借金取り合戦の最中に、もう江戸城に大名行列が向かう様子を詠んだ川柳。もちろん行列は、それぞれの国元から元旦めがけてやってくるわけではなく、江戸の大名屋敷から当日登城した。「卯半刻出仕」となっていたので登城時刻は午前7時頃。大名たちは、江戸城の門が開く明け六つ(午前6時頃)に間に合うように、それぞれの格式に見合うだけの供を連れて向かう。いくら江戸城に近い上屋敷から出かけるとはいっても、まだ日の出前の薄暗い時間だ。
「元旦諸侯御登城図」には、立派な門松が立つ大名屋敷(文の両側に唐破風造りの番所がある)の前を整然と進む二組の大名行列が描かれている。大名家で立てる門松、つまり松飾りは、それぞれ、お国ぶりの特色を出したのがあり、江戸っ子たちの中には、年始回りのついでに、それらを見物して歩く者もあった。とくに有名だったのが、秋田藩佐竹家と佐賀藩鍋島家の松飾り。
「三味線と鼓は江戸の飾り物」
まず「三味線」。これは下谷三味線堀に江戸上屋敷があった秋田藩佐竹家のこと。なぜここの松飾りが有名だったのか?
「門松の代りをもする秋田者」
なんと佐竹家では「人飾り」、つまり門の左右に家臣(足軽)を並べて門松代わりにしたのだ。
「佐竹の三味線堀の上屋敷では、元朝から七日まで表門外の敷石の上に、左右二側に足軽三人ずつ、行儀よく立っている。いかなる来賓に対して会釈もせず辞儀もしない、棒立ちに立ったまま、身動きもせずに、往来を見張っている。これが人飾りといって、松飾りの代わりなのであった。勿論、半刻替りというから、今の一時間交替で勤めたのである。」(三田村鳶魚『江戸の春秋』「お大名の松飾り」)
では先の川柳の「鼓」は何を意味するのか?佐賀藩鍋島家の「鼓の胴の松飾り」である。
「鼓の胴とて、いとも見事に精選した稲藁(いねわら)をもって、つづみの胴の如く編み作れり。そのくくりたる左右の開き5、6尺とも覚えたり。胴のくくりたる真中へ海老・橙等を結い飾り、松竹に添えて立てられたり。」(菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』)
「お年貢の殻で初音の鼓出来」(年貢の殻=藁で正月用の「鼓の胴の松飾り」ができた)
「裃で鍋をのぞきに廻るなり」(年始廻りのついでに、鍋島家の「鼓の胴の松飾り」を見に行く)
広重の『名所江戸百景 山下町日比谷外さくら田』にも描かれ、現在も「佐賀城本丸歴史館」の玄関の軒先に飾られている。
広重「江戸名所 洲崎はつ日の出」
『江戸名所図会』「元旦諸侯登城之図」
『名所江戸百景』「山下町日比谷外さくら田」
堀の向こうが、佐賀藩鍋島家35万7千石の上屋敷。赤い門は将軍家から姫君を迎えた証。門松の間に「鼓の胴の松飾り」が見える。
『名所江戸百景』「山下町日比谷外さくら田」 部分
広重「江戸名所 すきやがしより日比外(ひびや)を見る」
この作品にも「鼓の胴の松飾り」が描かれている
佐賀城本丸歴史館 「鼓の胴の松飾り」が再現
佐賀城本丸歴史館 「鼓の胴の松飾り」
『江戸府内絵本風俗往来』 鍋島家の「鼓の胴の松飾り」を作る様子
『江戸切絵図』「下谷絵図」
左下に「三味線堀」と「佐竹藩上屋敷」が描かれている
広重「江戸名所 洲崎はつ日の出」
広重「東都名所之内 雪ノ朝洲崎ノ初日出」
尾形月耕「元旦の朝」
江戸時代には元旦の烏は「初烏」と称して、目出度いものと理解されていた
「元朝(がんちょう)の烏 鶴にも 優る声」
「明烏(あけがらす) 元日ばかり 憎からず」
豊国「旭に烏船」
鳥居清長「戯童十二月 正月」
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