「マリー・アントワネットとフランス」23 マリー・アントワネット処刑
ルイ16世の死刑執行は1793年1月21日、そしてマリー・アントワネットのそれは9か月後の10月16日。革命政府にとって、古い社会の残滓を一掃するために、旧体制国家を象徴する国王の死は必要だった。しかし、制度上は何の政治的権限も持たない王妃の死は必要ではなかった。むしろ、オーストリア出身の王妃は交戦国との大事な取引材料であり、王妃の釈放と交換に何らかの外交上の利益が得られるかもしれなかった。そんなマリー・アントワネットがなぜギロチンの露と消えることになったのか?
1793年春、戦況が悪化したうえに、フランス西部のヴァンデ―県で保守的な農民の大叛乱が始まる。反革命派に対する警戒心が高まり、これにともなって、国王処刑後緩くなっていたタンプル塔の監視体制が再び強まった。3月には「革命裁判所」の設置が決定された。「革命裁判所」は「あらゆる反革命的企て、自由、平等、統一、共和国の不可分性、国家の内的および外的安全を脅かすあらゆる行為、王政を復活させようとするあらゆる陰謀」に関わる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告はいっさいなく、ここで下された判決は、即確定の最終判決であった。そして革命防衛のために設置されたこの「革命裁判所」が、やがて本来の使命を逸脱し、政敵排除にも利用されるようになるのである。
7月3日、マリー・アントワネットは息子から引き離された。王党派の将軍がルイ16世の息子を強奪してルイ17世と名のらせ、国王の地位につけようという噂が流されたためだ。さらに8月2日、コンシェルジュリに移送された。これは、「革命裁判所」で裁かれることを意味する。革命政府の本音は、彼女を外交交渉の切り札にしたい、ということだった。しかし、ヨーロッパの君主たちはいっこうに交渉に応じようという態度を見せなかった。マリー・アントワネットの実家、ハプスブルク家からして、まったく熱心ではなかった。フランス政府はこうした君主たちの態度にしびれを切らし、前王妃の裁判が身近に迫っていると警告するために、彼女をコンシェルジュリに移送したのであった。
マリー・アントワネットはコンシェルジュリに2か月半とどまることになったが、それは、前王妃を外交交渉の手段に使おうという思惑も依然として革命政府内にあったからだった。しかし、相手側に交渉に乗ってきそうな様子がないままに時間が経過し、「恐怖政治」(「テルール」。「テロ」の語源)が始まろうとする時期に行きあたってしまった。
裁判が開始されたのは10月14日。裁判は2日間にわたって行われ、16日の午前4時過ぎ、死刑の判決が言い渡された。死刑判決が出れば、その日のうちに刑が執行される決まり。いったん独房に戻されたマリー・アントワネットにはもう数時間の命しか残されていなかったが、少しも取り乱したところがなかった。最後の力を振り絞って義理の妹に手紙を書く。
「妹よ、あなた宛にこの世で最後の手紙を書きます。私は死刑判決を受けたばかりですが、死刑は犯罪者にとってのみ恥ずべきものなのですから、私の場合は何ら恥ずべきものではなく、あなたのお兄様のところへ行くように言われただけです。お兄様と同じように私は潔白ですから、最期の時においても同じ確固とした態度を見せたいと思っています。良心に恥じるものがないときに人がそうであるように、私は平静な気持ちです。・・・」
無数の群衆がひしめく中で、マリー・アントワネットは断頭台へ向かう荷馬車に乗った。その途上で彼女を救出しようとする動きに備えて、パリには3万人の部隊が配置された。23年前、王太子妃としてフランスに輿入れしてきたばかりの頃は人々の歓呼の声に迎えられたものだったが、この日、聞こえてくるのは悪罵と呪詛の声だけであった。美しかった金髪は真っ白になっていたし、眼には不眠を物語る隈があった。かつての美貌の面影はまったくなく、まだ38歳だというのに老婆のように老け込み、やつれはてていた。
刑場につくと、マリー・アントワネットは死刑執行人サンソンの助けを借りて馬車から降りた。そして、後ろ手に縛られていたにもかかわらず、一人で処刑台の急な階段を「ヴェルサイユ宮殿の大階段ででもあるかのように、同じ威厳ある態度で段をのぼっていった」(『サンソン家回想録』)。「さようなら、子供たち。あなた方のお父様のところへ行きます」——― これがマリー・アントワネットの最期の言葉であった。
1793年10月16日 マリー・アントワネットの処刑
ソフィー・プリウール「コンシェルジュリーに囚われたマリー・アントワネット」カルナヴァレ美術館
アレクサンドル・クシャルスキ「ルイ・シャルル」ヴェルサイユ宮殿 マリー・アントワネットの次男。長男が早世したので王太子となる。10歳で死去。
コンシェルジュりのマリー・アントワネットの独房(再現)
革命裁判所でのマリー・アントワネットの裁判
1793年10月16日 マリー・アントワネット最後の日の朝
ジョルジュ・カーン「コンシェルジュリを出るマリー・アントワネット」カルナヴァレ美術館
ウィリアム・ハミルトン「コンシェルジュリを出て刑場へ向かうマリー・アントワネット」フランス革命美術館
フランソワ・フラマン「荷馬車で刑場に向かうマリー・アントワネット」フランス革命美術館
シャルル=アンリ・サンソン
パリの死刑執行人(「ムッシュ・ド・パリ」)を勤めたサンソン家の4代目当主。ルイ16世、マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエール、サン=ジュストといった著名人の処刑のほとんどに関わった。
1793年10月16日 処刑直前のマリー・アントワネット
1793年10月16日 マリー・アントワネットの処刑
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