「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」11 公妾マントノン夫人③

 ルイ14世が、ナントの勅令を廃止(1685年)した背後に、秘密裡に結婚したマントノン夫人の影響を見る説(「マントノン夫人黒幕説」)は根強い。例えば、『ブルボン家の落日』(戸張規子)。

「敬虔なカトリック信者であるマントノン夫人の助言で、宗教にはほとんど無関心だったルイ14世の信仰心は篤くなる一方で、アンリ4世の発布した「ナント王令」の廃止に踏み切った。」

 『太陽王ルイ14世』(鹿島茂)に至っては、「国王とマントノン夫人の心理的SMプレイの結果、ナントの勅令廃止が決定」されたとして、こう述べている。

「ルイ14世は、マントノン夫人を得た喜びから夫人の望むことをしてやってドーダしたいと思う。夫人の望むこととはナントの勅令廃止である。だが、夫人としては自分から言い出すことは越権行為だからできない。そのために、決して命令を口にしようとはしない。しかし、Mのルイ14世としては、Sである夫人の口から命令を聞くというかたちでしか快感を得られないので、なんとしても夫人が自分にナントの勅令廃止を命令するように持って行こうとする。」

 マントノン夫人は、確かにカトリック信者として信仰篤い女性であったが、その一方でユグノー(プロテスタント信徒)に対する改宗の強制に、常日頃から反対していたことが知られている。この改宗強制は「竜騎兵(ドラゴン)」と呼ばれる新規の騎兵連隊が用いられたことから、「ドラゴナード」と呼ばれて恐れられた。その手法は、改宗するまでプロテスタント信者の家に兵士を宿泊させ、兵士の生活費を負担させるというもの。ドラゴンたちが好き勝手な乱暴狼藉を働いた結果、数千人のユグノーがカトリックへの改宗に応じたが、改宗を拒否して海外逃亡を図るものも多数存在した。

 マントノン夫人の生い立ちはユグノーとかかわりが深い。祖父はユグノーの猛将で、アンリ4世の友人(1593年にアンリ4世がカトリックに改宗してからは距離を置くようになる。1620年ジュネーヴに亡命)で詩人のアグリッパ・ドービニェ。母親がカトリックだったため、カトリックの掟に従って洗礼を受けたが、12歳で天涯孤独の身になると、熱烈なユグノーだった叔母のヴィレット夫人に引き取られる。ヴィレット家はフランソワーズ(マントノン夫人)の家族よりも裕福でフランソワーズの面倒を良く見てくれ、幸福な時間を過ごした。しかし、その信仰の深まりを心配した彼女の代父母らによって、フランソワーズはヴィレット夫人のもとから引き離され、聖ウルスラ会女子修道院の寄宿舎に入れられる。

 マントノン夫人にはユグノーに対する否定的イメージは見られない。また幼くして孤児になったとはいえ、ヴィレット夫人からも、そして修道院でも修道女の一人セレストから深い愛情を受けた。そして、結婚後は重症のリューマチを患っていた夫スカロンに対して献身的に看護にあたったし、モンテスパン夫人の子どもの養育係になってからはルイ14世が目をみはるほどの深い愛情を子どもたちに注いだ。だから、ナントの勅令廃止についてのマントノン夫人黒幕説は、彼女と敵対した勢力によって流布されたものと考える。

 彼女は犯罪人の子供として生まれながら、秘密とは言え王妃にまで昇りつめるという、絵空事の物語のような社会的上昇を成し遂げた。当然、それを妬み、悪くいうものには事欠かなかった。その一人が、王弟フィリップ・ドルレアンの2番目の妃パラチナ姫、シャルロット・エリザベト・ド・バヴィエール。プロテスタントのプファルツ選帝侯の長女。当然、プロテスタントに信仰の自由を認めていたナントの勅令の廃止には反対。そして、彼女はカトリック信仰が厚く厳格な印象を与えるマントノン夫人を毛嫌いし、「しわくちゃ婆さん」、「塵ばば」と手紙の中で酷評していた。これらが結びついて、パラチナ姫がマントノン黒幕説を説き、反マントノン勢力の中で広まっていったのが真相ではないか。

 いずれにせよ、フランスのほとんどのカトリックはルイ14世のナントの勅令廃止に拍手喝采した。これから20年以上も戦争を続けることになるフランス国民の一体感、連帯感は、これを機に醸成された。

アントワーヌ・コワペル「マントノン夫人と、ルイ14世とモンテスパン夫人の子どもたち」

「アグリッパ・ドービニェ」ジュネーヴ図書館

ピエール・ミニャール「エリザベート・シャルロット」プラド美術館

「ドラゴナード」 竜騎兵(ドラゴン)による改宗の強制

ルイ14世によるナントの勅令の廃止

ピエール・ミニャール「マーストリヒトのルイ」1673年

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