「いざ吉原へ」15 遊女(3)「苦界十年」②
遊女にも休日はあったが、年にわずか二日、正月(一月一日)と盆(七月十三日)だけだった。しかも休日といえども、よほどのことがなければ自由に大門の外に出ることはできない。よほどのことがあった場合でも、申請して「切手」と呼ばれる大門の通行証をもらい、外出時には遣手や妓楼の若い者が付き添わなければならなかった。
しかし、年二日の休日で吉原で働き続けることなど不可能。そこで遊女たちは「身揚り(みあがり)」をして休日をつくった。「身揚り」とは、自分の揚代を自分で遊女屋に払い、その代わりに休みをもらうこと。つまり、ただでは休ませてくれないので、遊女は自分で自分を買ったのである。それをすれば借金が増えて年季明けが遠のくことになるが、そうでもしなければ遊女は休むことができなかった。
食事も、上客をもつ行為の遊女は充実していたが、下級遊女は基本的に一汁一菜で、ご飯は盛りきり一膳、おかずも野菜の煮物や漬物程度という質素なものだった。前夜の宴席の残り物をひそかにとっておいて、翌日の朝食や昼食の時に禿や新造たちが小鍋で煮て食べることもあったという。部屋も、花魁になると自分の部屋と客を迎えるための座敷を与えられたが、下級遊女たちは二十畳程度の部屋で雑居していた。
過酷な労働条件の下、不摂生な生活を強いられた遊女たちは、当然体調を崩し病気になる者が多かった。吉原にも医者はいたが、風邪薬を調合する医者と鍼医程度。しかも、治療費はすべて遊女の自腹。よほどの売れっ子でもなければ、郭外から医者を呼んではもらえなかった。
病気になっても遊女はめったに休むことは許されない。稼ぎのよい遊女は、振袖新造や禿をつけて、浅草今戸町や金杉村にある妓楼所有の「寮」(別荘)で療養できたが、その間の食費、新造や禿の手当てなど療養中の費用はすべて遊女持ち。稼ぎの少ない遊女の場合は、行灯部屋などの粗末な部屋に入れられ、手厚い看護など望むべくもなかった。到底回復しないと思われる遊女は、親元に返されることもあったが、再び全快して、大門をくぐり吉原に戻れる遊女は百人に一人。
「大門を出る病人は百一つ」
ほとんどの遊女がデビューして1年以内に感染したのが梅毒。性病予防具のコンドームもなく、性病に対する知識も不足していた環境下で、不特定多数の男と性交渉を重ねていたわけだから、遊女が性病に罹患するのは当然。しかし、当時、治療法はなく、漢方薬で痛みを押さえたり、民間療法でごまかすくらいが関の山だった。梅毒にかかって寝込むことを、「鳥屋(とや)につく」と言ったが、髪が抜けるのを、鷹が夏の末から脱毛して冬毛に生え変わる様子にたとえたのである。梅毒が進行した遊女の末路は悲惨だった。
「心身労(つか)れて煩(わずらい)を生じ、また瘡毒にて身体崩れ・・・、とても本復せざる体なれば、さらに看病も加えず、干(ほし)殺し同様の事になり、また首を縊(くく9り、井戸へ身を投げ、あるいは咽(のど)を突き、舌を噛むなどして変死するものあり。)(『世事見聞録』文化13年)
不思議に思うのは、客の男たちが女郎買いをすれば性病にかかる恐れがあることを知りながら、不安にならなかったこと。『江戸愚俗徒然噺(えどぐぞくつれづればなし)』(案本胆助 天保頃成立)にこんな記述がある。
「危ふき事はたとへてみれば、無挑灯(むちょうちん)にて晦日の夜、犬のくそ新道を通るくらいのものなるべし」(遊女と遊んで梅毒にかかる確率は、月の出ていない夜に提灯なしで道を歩いて犬の糞を踏みつけるようなものだ)
これでは妓楼が性病対策を真剣に考えるはずはない。吉原が梅毒予防を真剣に考え始めるのは、明治目前の1867年のこと。それも、幕府のお雇い外国人の意志の建議によるもので、吉原が自ら進んで行ったわけではなかった。
『青楼美人合姿鏡』 昼見世の空いた時間でかるた遊びに興じる遊女たち。
『玉子角文字「(たまごのかくもじ)』
おかずは漬物と一皿だけである。ご飯はお櫃に入っている。
国直「新版娼家全図」部分 一階の広間での朝食風景
山東京伝『令子洞房(むすこべや)』
妓楼の一階の隅の方にある行灯部屋。稼ぎの悪い遊女は病気になるとここに入れられた。薄暗く湿った部屋なので、病気が治るわけはなかった。
歌麿「北国五色墨 てっぽう」
「切見世女郎」は、梅毒におかされたものが多く、当たれば死ぬとさげすまれ「鉄砲女郎」と呼ばれた
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