「いざ吉原へ」14 遊女(2)「苦界十年」①

 「女郎に売られる」というのはよく使われる表現だが、幕府は人身売買を禁じていたから、吉原の遊女も公的には十年の年季奉公人だった。十六歳で雇われれば、十年奉公して二十七歳で年明(ねんあ)けして自由の身となる。これが「苦界(くがい)十年」。

      「十年で極楽へ出る籠の鳥」

 しかしこの「年季奉公」とは表向きの話であって、実際は、貧しい親が給金の前借りと引き換えに、娘を遊女屋に売り渡した。つまり実質的には人身売買と同じだった。親が直接妓楼に売る場合もあったが、たいていの場合は「女衒(ぜげん)」を仲介にした。女衒とは、女性を妓楼に斡旋する者のことで、「周旋屋」「口入屋」「玉出し屋」ともいった。俗称では「人買い」ともいわれた。女衒は、親や親族からの申し入れだけでなく、自ら諸国を巡って遊女になる女性を探した。貧農の娘を探し出しては親を口説き、娘には甘言を弄して(「毎日、白いおまんまが食え、きれいな着物が着れるんだぜ」など)妓楼に売り飛ばしたのである。

      「にこにこもぜげんのするハすごく見へ」

庄司甚内は吉原開設にあたって、人さらいを取り締まると豪語していたが、実際には吉原による人身売買や人さらいは明治時代になっても存在し続けた。では、いくらで売られたのか?『世事見聞録』(著者武陽隠士【ぶよういんし】。7巻。1816年ころ成立)にはこうある。

「遊女は皆、親の困窮によって家を出る。国々の内でも越中・越後・出羽あたりから多く出る。わずか三両か五両の金子に困って売るという」

 一両10万円としてもわずか30~50万円。『宮川舎漫筆(きゅうせんしゃまんぴつ)』(幕末に書かれた随筆)に、ある下級武士の娘が貧困に陥った家族を救うために、自ら吉原に身売りをした話が書かれており、その前借金は十八両だった。武士の娘という拍がついていても、180万円程度の金で売り飛ばされたのだった。

 これらの金は遊女の借金となるわけだが、前借金が安くてもそう簡単には返せなかった。膨大な利子がつけられたし、日常生活で必要となる金はすべて遊女の持ち出しであったから、年季十年を務めあげなければならなかった。こうした遊女たちの境遇は、金のために女性が一大決心をして家族を救ったものだとして、まわりから非難されるようなことはなく、むしろ親孝行であるという認識が強かった。幕末に軍医として来日したオランダ人医師ポンぺも次のように述べて理解を示している。

「ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、本だからこそ人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない。大部分はまだ自分の運命について何も知らない年齢で早くもうられていくのがふつうなのである」

 そのほか、役所に捕らえられた岡場所の私娼が、吉原に引き渡されることもあった。吉原に送られた私娼たちは、吉原の五町に分配されて、町ごとに入札が行われた。入札金は町ごとに積み立てて、郭内の共同入費に使われた。

 ところで、表向き「年季奉公」だったため、妓楼への身売りには「不通縁切証文」と「遊女奉公人年季請状(うけじょう)」というものが取り交わされた。前者では、親兄弟など家族と縁を切り、娘を妓楼に養女として渡し、それまでの養育費として親に金が支払われる。後者は、年季を定めて娘を下女奉公として出すことを認めさせるものである。その前借金として、親が金を受け取る。江戸時代初期には年季奉公がは三年とされたが、後に十年まで認められた。ただ、遊女として働ける年齢がだいたい十五歳くらいだったから、たとえば十歳で売られた場合、五年間は「唯養い」「捨てさり」などといわれ、十五歳からの十年間を年季とした。

『遊女大学』中央の煙管を持つ男が女衒

『玉子角文字「(たまごのかくもじ)』 女衒と相談する楼主

 火鉢を抱えているのが楼主。女衒の前には契約書らしき紙片が置かれている。

『跡着衣装』(十返舎一九著、文化元年)

 兄と称する男(右下)が、女(うつむいて座っている)を妓楼に連れてきて、売ろうとしている。左の、煙管を持った男が楼主。楼主の右の、手に紙を持っている男が女衒。身売りは表向きは年季奉公なので、必ず証文を取り交わす。証文の作成には女衒の専門知識が必要だったため、女衒は妓楼に呼ばれてきたのである。

歌麿「高名美人六家撰 扇屋花扇」

歌麿「松葉楼 粧ひ 実を通す風情」

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