「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」10 コジモ・ディ・メディチ(3)ヴェネツィア

 10月初旬、コジモは追放先へと旅立つ。無事フェラーラ侯国に入り、候の宮廷に招かれて歓待を受けた後、パドヴァに向かう。ここでも国賓待遇を受け、2か月過ごした後、亡命先を弟ロレンツォのいるヴェネツィアに移し、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂付属修道院内に居を定めた。アウグスティヌス会のこの修道院は、教皇エウゲニウス4世の若き日の修業の場所であった。

 ヴェネツィア。ラグーナと呼ばれる浅瀬に作られた人工都市、縦横に走る運河の網、東西貿易最大の拠点、ヨーロッパ最大の国際都市、アドリア海の女王。港には絶えず商品を満載した船が出入りし、大運河沿いには商人貴族の夢のような美しい館が建ち並び、まるで魔法の国に来たかのような幻覚を旅人に与える。だが、その夢幻的な街の姿に反して、この国の政治は冷徹なリアリズムに貫かれていた。フィレンツェと並ぶ経済大国となったヴェネツィアだが、同じ共和制、同じ商人寡頭制でも、フィレンツェのようにイデオロギーに酔い痴れることはなかった。

 亡父ジョヴァンニが晩年に大使として訪れたこのヴェネツィアの町で、コジモは多くを学んだ。同じコムーネ共和制、同じ富豪共和制でありながら、ヴェネツィアの政治はなぜかくも安定しており、党派対立の弊害を免れているのか?同じく経済大国でありながらフィレンツェと違って、国際社会の中で、政治的にも軍事的にも重きをなしているのはなぜか?フィレンツェは今後この国とどう付き合っていくべきなのか?またコジモは、世界の情報が集中するこの町にいて、東方の激動についても実感を持って知ったであろう。新たにイスラム世界に勃興したオスマン・トルコが、東ローマ帝国の版図を次々に侵してバルカン半島と小アジアに進出、かつて繁栄を誇った大帝国も今は影が薄く、その支配権は首都コンスタンチノープル周辺を残すのみだった。

 しかし、コジモはヴェネツィアに閑居してもっぱら世界の大勢を眺め、将来の構想を温めていたのかといえば、決してそうではない。彼はメディチ銀行の最高責任者であり、銀行業の他に貿易も毛織物も絹織物も扱うメディと財閥の総帥なのであって、この間も彼の事業は、一日の休みもなく着々と発展の道をたどっていたのだ。だがもちろん、コジモが最大の注意を払ったのは、故国フィレンツェの情勢。弟ロレンツォはつねに彼のかたわらにおり、従兄のアヴェラルドとも連絡可能。メディチ銀行の支店網を利用すれば故国に残るメディチ党との情報交換は十分可能だし、フィレンツェ共和国にはヴェネツィアのように強力な警察機構は存在しない。コジモは逐一フィレンツェ情報を知り、必要な指示をメディチ党に与えることができた。亡命の1年間にフィレンツェの政情は転変し、形勢は逆転しつつあった。

 リナルド・アルビッツィは、この1年の間に孤立を深め、経済不況は好転せず、またもミラノと戦うことになったが、フィレンツェの傭兵軍はイモラで敗れて(1434年8月)、市民の不満は極限に達していた。そして1435年9月、多数派をメディチ支持者が占める新政府が選ばれる。この政府がメディチの帰還を決議すると、リナルドはそれを武力で抑え込もうとし、政府側も対抗して軍備を固めたため、市内に緊張が高まる。

 このとき調停に乗り出したのが、フィレンツェに亡命(コロンナ一族との抗争がもつれて、ローマの治安が極度に悪化したため)していたローマ教皇エウゲ二ウス4世。メディチ家の資金援助によってローマにもどりたいと考えていた教皇は、9月26日、滞在していたサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にリナルドを呼び、市政府の意志は教皇の意志であり、抵抗は無意味であると通告した。それは調停というより降伏勧告に近かった。この2日後の9月28日、市民集会が招集されバリア、すなわち臨時執行委員会が設置される。もちろん10名の委員はメディチ派一色。1年前とは逆にメディチ家の追放が取り消され、リナルド・デリ・アルビッツィをはじめ、70人以上の有力者の追放が決定された。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ島 パッラーディオ作の美しい聖堂(中央)と修道院(右)

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂付属修道院 

 この一室でコジモは亡命生活を送った

ターナー「税関とサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂」1834年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

モネ「夕暮れのサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂」カーディフ国立博物館 ウェールズ

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