「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」8 コジモ・ディ・メディチ(1)逮捕

 1429年にジョヴァンニが死去した時、長男コジモはすでに40歳の有能で経験豊かな銀行家・実業家であり、6歳下の弟ロレンツォとともに、フィレンツェの指導的な寡頭政治家のひとりになっていた。コジモが父から受け継いだのは、莫大な財産(18万フィオリーノ)と強力な派閥人脈だけではなかった。激しい党派社会フィレンツェで生き残るための賢明さと処世術、すなわち冷静沈着なリアリズム、極度の政治的慎重さ、市民大衆への気前の良さと農民的な質素さ、人心掌握の本能的な明敏さをすべて受け継いだ。

 しかし、そんなコジモもフィレンツェで権力を確立する1434年までに、敵対勢力によって逮捕・追放を経験しなければならなかった。コジモが父の後を受けて一家の長となった1429年、フィレンツェ共和国は大アルテの利益を代表する約20の富豪門閥の支配下にあった。その中心的存在であったアルビッツィ家の当主リナルド(軍人、外交官として頭角をあらわした傲慢で自尊心の強い直情的な人物)はコジモを力で排除する機会を狙っていたが、旧勢力の長老政治家ニッコロ・ダ・ウッツァーノに抑えられていた。彼はコジモが支配者側にとって危険な人物であることは分かっていたが、リナルドにこれ以上権力が集中することも恐れていたのだ。

 1429年、それまでの対外膨張政策の成功に味を占めたリナルドは、今度は隣国ルッカ(ルッカとフィレンツェは絹貿易に関しては旧敵であり、また主要な競争相手だった)への侵略を主張し、フィレンツェはルッカとの戦争に乗り出すことになる。ルッカはフィレンツェと敵対関係にあるミラノに救援を求め、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティは高名な傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ(イル・モーロのミラノ宮廷に仕えたレオナルド・ダ・ヴィンチの最重要の仕事は、「フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像」の製作だった)に率いられた軍隊を派遣。フィレンツェが雇っていた傭兵部隊はスフォルツァの敵ではなく、たちまち蹴散らされてしまった。フィレンツェ政府は5万フィオリーノでスフォルツァを買収し、ようやくのことで追い払った。しかし改めてルッカから援助を求められたミラノ公は、今度は別の傭兵隊長ニッコロ・ピッチーノを派遣。フィレンツェ軍はまたも敗れ、結局1433年に和睦を結んで、この不名誉な戦いにようやく終止符を打つことができた。

 コジモはこの対ルッカ戦には消極的だった。戦争のための出費は莫大なもので、重税にあえぐ市民たち(戦費はこの時期毎月7万フィオリーノにのぼり、強制国債の額は各市民の資産の18%に引き上げられた)の間に、戦争を推進してきたアルビッツィ家を中心とする寡頭勢力に対する反感が高まり、コジモはその中心人物と見なされるようになった。こうして戦争政策を強行してきたリナルド・デリ・アルビッツィを中心とする旧寡頭勢力と戦争継続に消極的だった新興のメディチ派の対立が先鋭化。それでも、ニッコロ・ダ・ウッツァーノが生きている間は、コジモを倒そうとする寡頭勢力の強硬派は抑えられていたが、1433年に彼が亡くなると、リナルドはメディチ派の一掃に動き出す。

 武力闘争ではリナルドはメディチ派に勝てない。彼の計画は、コジモを国家反逆罪で告発し、非常事態下の即決の秘密裁判で死刑を宣告し、判決を直ちに執行する、というシナリオだった。フィレンツェ共和国の執政府(シニョーリア)は8人の「プリオーレ」(執政官 任期2か月)と議長格の「ゴンファロニエーレ・デラ・ジュスティツィア」(「正義の旗手」)で構成されていたが、リナルドは「プリオーレ」選出のための抽選を巧みに操作し、その年の9月~10月の2か月間を担当する8人のうち6人を自派で固め、また滞納していた税金(その事実が明るみに出れば政府の要職に就く資格は失われる)を支払ってやることで自派に引き入れたベルナルド・グアダーニを当選させた。さらにリナルドは何人かのコジモ支持者を拷問にかけ、コジモが国家反逆をたくらんでいたという証言を引き出す。そして9月7日、ベルナルドはコジモに政庁舎への出頭を命じ、出向いてきたコジモを逮捕する。

ルッカ 堂々たる市壁に囲まれた中世都市の趣を現在に残している

ポントルモ「コジモ・デ・メディチ」ウフィツィ美術館

ドナテッロ「ニッコロ・ダ・ウッツァーノ」バルジェッロ美術館

ボニファチョ・ベンボ「ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ」ブレラ美術館 ミラノ

ルーベンス「レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアリの戦い』のコピー」ルーヴル美術館

 左から2番目の騎手がニコロ・ピッチーノと伝えられる

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