「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」7 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(3)

 ルネサンス美術が産声をあげたとされるのは、1401年のフィレンツェ政府主催美術コンクール。このコンクールの審査員は市民の有識者で構成されたが、ジョヴァンニ・ディ・ビッチもそのなかに加わっていた。このコンクールは、フィレンツェが誇りとする建築のひとつ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の新しい扉を飾る青銅浮彫の作者を選定するためのもの。

 課題は旧約聖書の「イサクの犠牲」。予選を勝ち残ったのはまだ無名の若い二人の彫刻家、ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキだった。両者ともゴシックの美学に叛旗を翻したが、ギベルティがウマネジモ(人文主義。英語でヒューマニズム)と古典美術の研究を踏まえて穏健にゴシックからの脱却をはかるのにたいし、ブルネレスキは独創的かつ革命的にゴシック理念と対立し、その構図はゴシック式の飾り枠と激突する。芸術の歴史に新しい章を開いたフィレンツェ・ルネサンスの流れは、この作品に端を発する。そしてメディチ家はこの新潮流を支持し、その推進力となるのである。

 ジョヴァンニはサン・ロレンツォ聖堂新築にあたって、その聖具室の設計をブルネレスキに依頼し、装飾はブルネレスキの盟友ドナテッロに任せた。この超革新的な人選に聖堂側は異を唱えたが、ジョヴァンニはそのまま押し切る。聖堂新築の経費はメディチ家が負担しているのだから、教会側もあまり強いことは言えないのだ。美術のパトロンとしてのメディチ家の名声も、こうしてジョヴァンニによって準備され、次のコジモの代に確立するのである。

 ジョヴァンニのたゆまぬ努力によってメディチ家は歴史の暗闇からついに陽の当たる場所に乗り出した。粗野で暴力的で過激な一族というイメージは遠景に退き

、いまやメディチ家は下層の民衆も含めて市民の広範な支持を集める国政の支柱であり、しかも洗練された革新的な趣味と教養に基づいてフィレンツェの町に光輝と美観をもたらす学芸のパトロンと評価されるに至った。

 1429年、病床に伏したジョヴァンニは死期を悟り、二人の息子を枕頭に呼んで、最後の教訓を与えた。マキャヴェッリは『フィレンツェ史』のなかで、その言葉をつぎのように伝えている。

「私はかつて誰かを攻撃して怒らせた覚えがないし、その逆に、自分の能力に応じて、誰に対してもよかれと計らってきた。だからこそ、こんなに満足な気持ちで世を去ることができるのだ。お前たちにもそういう生き方をしてもらいたい。国事については、安全に暮らしたいと思うならば、法律と世論によって認められることだけをするがよい。そうしていれば、ひとの妬みからも危険からも免れることができる。奪うから憎まれるので、与えていれば憎まれることはない。他人の分を侵そうとして己の分まで失い、己の分を失う前からくよくよ気苦労に明け暮れている連中がいるが、そんなのと比べたらお前たちの方が遥かに楽な暮らしができるだろう。私は多くの敵に囲まれ、幾度となく非難を浴びてきたが、そういう術を心得ていたから、この都市での自分の評判を落とすことなく、逆に高めさえしたのだ。お前たちも私の後を継ぐに当たって、評判を落とさぬよう、評価を高めるように努めなさい。そうしなければ、お前たちの末路は、我が身を滅ぼし家を破滅させたあの連中と、少しも変わらぬことになると思いなさい。」

 ジョヴァンニは1429年2月20日に死去したが、遺言書は残していない。生前の事業を教会によって禁じられた「高利貸」と認めることによって、遺産の返済などのトラブルに遺族を巻き込まない様にしようとしたものと思われる。ではなぜ、息子たちしか知らない遺言の内容が広く知られたのか?抜け目ないジョヴァンニのこと、「控え目で穏和」というメディチ家のイメージを行き渡らせるため、死後に公表するように息子たちに指示していたと思う。アルビッツィ家のような敵対勢力はだまされないだろうが、共和国フィレンツェの民衆の指示を得るうえで不可欠なイメージ戦略だった。

サン・ロレンツォ教会 ブルネレスキは外観未完成のままこの世を去った。現在も往時の様子を保っている

サン・ロレンツォ教会 全体

サン・ロレンツォ教会 内陣

サン・ロレンツォ教会旧聖具室

ヴァザーリ「コジモにサン・ロレンツォ教会の模型を示すブルネレスキ」ヴェッキオ宮殿 コジモ・イル・ヴェッキオの間

ブルネレスキ

ブルネレスキ「イサクの犠牲」バルジェッロ国立美術館

ギベルティ「イサクの犠牲」バルジェッロ国立美術館

サン・ジョヴァンニ洗礼堂 フィレンツェ

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