「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」6 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(2)

 ヴィエーリは1386年、ジョヴァンニを共同経営者とする商会をローマに設立。教皇庁を主要顧客とするこの商会は、ヴィエーリの金融事業のなかでも最も重要なものとなり、ジョヴァンニは金融業者として急速に頭角をあらわす。そして1393年、ヴィエーリが引退すると、ジョヴァンニはその事業を引き継いで独自の商会「ジョヴァンニ・ディ・メディチ・エ・コンパーニ・イン・ローマ」を設立。ジョヴァンニはこの商会の本拠地を1397年10月1日、ローマから故郷のフィレンツェに移すが、この日こそ、15世紀のフィレンツェ経済界に君臨するメディチ銀行の真の創設日である。

 このジョヴァンニ・ディ・ビッチの銀行商会(メディチ銀行)は、発足から組織再編がなされる1420年にかけて飛躍的な発展を遂げ、支店を主要都市に拡大した。このメディチ銀行の急成長を支えていたのはローマ支店。1435年までメディチ銀行の年収益の50%を常に越えていた。ジョヴァンニは、ローマでヴィエーリの商会の共同経営をまかされていた若い時から対教皇庁の金融業務に深く喰いこみ 、有益な人脈の形成に努めた。とりわけ重要なのは、のちの対立教皇ヨハネス23世となる前歴不詳で醜聞に包まれた人物、バルダッサレ・コッサ(1370年頃―1419年)との関係である。

 当時のキリスト教会は、教皇のアヴィニョン幽囚(1309年―77年)に続く大分裂(シスマ 1378年―1417年)の時代であり、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立するという教会史上でも稀有の混乱した状況にあった。ジョヴァンニは、コッサと早くから個人的親交をかわしてその後援者となり、彼が枢機卿になる際(1402年)にも、教皇に即位した際(1410年)にも、巨額の資金を提供したと言われる。その結果として、メディチ銀行のローマ支店長は、教皇庁の収支の一切を管轄していた教皇庁会計院の総財務管理者に指名され、対教皇庁の金融業務において絶対的に有利な立場を確立した。そして、メディチ銀行はこの総財務委託者という立場を15世紀末まで何度かの中断をはさみながらも、継続的に確保するのである。

 銀行業の成功によってジョヴァンニの社会的立場は急速に上昇し、銀行組合の中心的メンバーとして共和国政府の要職を歴任することになった。しかしジョヴァンニは政治的に極めて慎重な人物で、与えられた公的職務を誠実に遂行しながらも求められる以上に政治に深入りしようとせず、有力者間の覇権争いには一貫して距離を保った。都市の平和と市民全体の利益を優先して行動し、しだいに大きな市民的信望を獲得していった。こうして社会的ステータスが上昇していったが、1422年に教皇マルティヌスがモンテヴェルデの伯爵位を授けようとした時には、彼はこれを断り、一市民の立場にとどまっている。そこには、激しい政治的内部抗争を繰り返してきたフィレンツェという都市の中でどうやってのしあがっていくかに対するジョヴァンニの深い洞察があったと思う。

「どんな共和国にもさまざまな内部分裂が見られたが、フィレンツェの内部分裂はもっともすさまじいものであった。というのも、我々が知っている多くの他の共和国では、一回の分裂だけでもしばしば歯止めがきかなくなってその都市を滅ぼしてしまうことがあったのに、フィレンツェでは、一度の分裂ではこと足りず、何度もの分裂が起こったからである。・・・フィレンツェではまず貴族どうしが分裂し、次に貴族と平民が分裂し、最後に平民と下層民が分裂した。さらに勝ち残った党派が二つの党派に分裂することも何度もあった。こうした分裂から多くの死者、多くの亡命者、多くの家門の断絶が生じ、それは記憶に残るどんな都市で起こった事よりもすさまじかった。

 しかし、実際私が見るところ、他のどんなに大きくて勢いのある都市でもたちどころに滅ぼしてしまうようなこうした分裂からもたらされる活力ほど、わが都市の活力を示すものはない。それどころかわが都市の力はこの分裂によってますます大きくなった。かの市民たちの卓越した活力、彼らの卓越した才覚と精神は彼ら自身とその祖国を偉大たらしめ、多くの災害から免れた者は、その活力によって、あの数々のいまわしい出来事が祖国を弱体化し、打撃を与えた以上に、祖国の高揚をもたらしたのである。」(マキャヴェッリ『フィレンツェ史』序文)

「ハイデルベルク城」 コンスタンツ公会議で廃位されたヨハネス23世はここに幽閉された。そしてジョヴァンニ・ディ・ビッチによって救い出され、賓客としてフィレンツェに迎えられた

対立教皇ヨハネス23世

「コンスタンツ公会議」 ロスガルテン美術館 コンスタンツ

アルブレヒト・デューラー「神聖ローマ皇帝ジギスムント」 コンスタンツ公会議を開催

「ヤン・フス」コンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処せられた

杭にかけられて焼かれるフス

ドナテッロ、ミケロッツォ「バルダッサレ・コッサの墓碑」サン・ジョヴァンニ洗礼堂 フィレンツェ 

 碑文に「かつて教皇であったヨハネス23世」と書かれ、かつて正規の教皇であったと思われる曖昧な印象を与える碑文の変更を教皇マルティヌス5世から命じられたがフィレンツェは取り合わず、現在も墓碑と共に残されている

同上 部分

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