「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」5 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1)

 度重なる危機の襲来のなかで、フィレンツェの経済活動は当然ながら疲弊し、下降線をたどるが、その驚くべき底力によって、フィレンツェの織物産業と銀行業はイタリアとヨーロッパで依然として第一級の地位を保ち続ける。しかし、多くの商会の倒産によって商工業界では集中化が進み、有力家門の間の力関係には大きな変化が生じた。ペルッツィ家、バルディ家などの旧来の支配勢力に変わって、アルビッツィ家、リッチ家、ストロッツィ家、そしてメディチ家などの新興の一族が台頭し、アルビッツィ家とリッチ家を中心とする二つの対向しあう支配勢力が形成される。毛織物業を基盤とする貴族出身のアルビッツィ家の側には、ストロッツィ、ルチェライ、パッツィなどの家門が、銀行業を基盤とする新興のリッチ家の側には、メディチ、リドルフィ、そして貴族出身のアルベルティ、サルヴィアーティなどの家門が結集した。

 1340年代の経済危機による古い有力門閥の没落と黒死病による社会的疲弊は、新興門閥のメディチ一族の社会的進出にとって一面では有利にはたらいた。しかし、メディチ一族全体の経済力は依然として二流の段階にとどまり、その政治的影響力もまだ小さなものにすぎなかった。こうした一族の全般的沈滞の中で、例外的に政治の表舞台に登場し、一時的にであれ脚光を浴びたのが、14世紀後半の最大の政治的事件である「チョンピの乱(1378年、毛織物業の各種の下請作業にたずさわる最下層の労働者「チョンピ」が小アルテに属する手工業者と手を組んで起こした暴動。梳毛工ミケーレ・ディ・ランドが指導)」と深い関わりを持ったサルヴェストロ・ディ・メディチである。この乱の最中、サルヴェストロは一時的に下層民衆の「英雄」に祭り上げられるが、彼が暴動を誘発する巨に出たのは、冒険的な党派争いからで下層民への同情からではない。しかしマキャヴェリも伝えるように、彼の行動は長くフィレンツェ市民の記憶に残り、「中小市民の擁護者としてのメディチ家」という政治的イメージの形成に寄与するのである。

 チョンピの乱鎮圧後、サルヴェストロはミケーレ・ディ・ランドらとともに国外追放に処せられる。そしてアルビッツィ家を中心とする約20家系の大富豪門閥による寡頭支配体制は、1380年代から1430年代にかけて40年以上にわたって続くことになる。政治的・経済的に弱体で、一族の政治的態度もばらばらであったメディチは、政治の表舞台から直ちに排斥されることはなかったが、それでも14世紀の最後の20年間、彼らの政治的退潮は著しかった。

 こうした衰退を食い止め、地道で精力的な経済活動と慎重な政治活動を通じて、従来のメディチ一族のネガティヴな社会的イメージ(メディチ一族は古くから横暴で無法な一族として悪評が高かった)を大きく転換し、15世紀のフィレンツェ社会におけるメディチ家の覇権確立の礎を築いたのが、アヴェラルドの家系に属するジョヴァンニ・ディ・ビッチであった。そして15世紀を通じてフィレンツェ社会の主役となるメディチ家の歴史は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチに始まり、その長男コジモからピエロ、ロレンツォへと引き継がれるこのアヴェラルドの家系の歴史に他ならない。この家系は、始祖のメッセル・アヴェラルドとその子孫が13世紀後半からムジェッロの地に広大な土地を取得し、またその息子たちが銀行商会を設立して北イタリアまで活動範囲を広げたが、彼らはメディチ一族にまつわる悪評高い粗暴なエピソードとも縁が薄く、一族の中でももっとも堅実で保守的な家系であった。

 15世紀以降のフィレンツェの歴史の主役となるメディチ「王朝」の始祖ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360―1429)はアヴェラルド・デット・ビッチの5人の息子の末子として生まれた。3歳で父親と死別したジョヴァンニの才覚を見出したのは、遠縁の同族ヴィエーリ・ディ・カンビオであった。ヴィエーリは、チョンピの乱以後衰退いちじるしいメディチ一族の中にあって、その慎重な性格と優れた商才によって大きな成功をおさめ、フィレンツェの政治経済界で重鎮的な存在となった人物である。イタリア各地に商社網を拡げつつあったヴィエーリは、1385年に25歳のジョヴァンニを社員として起用する。

ブロンズィーノ工房「メディチ一族肖像画」ウフィツィ美術館

「ジョヴァンニ・ディ・ビッチ」パラッツォ・ダヴァンザーティ

「ミケーレ・ディ・ランド」メルカート・ヌオーヴォのロッジア

メルカート・ヌオーヴォのロッジア フィレンツェ

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