「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」2 危機の14世紀(1)

 フィレンツェにとって14世紀は危機の世紀。ジョヴァンニ・ヴィッラーニ(1276年or1280年―1348年 フィレンツェの銀行家・政治家・歴史家)が、300人の命を奪い「空の水門が開いたようだ」と『新年代記』(Nuova Cronica) で記した大洪水が1333年に発生した。

「すべての人々が大きな恐怖におそわれ、市中の教会の鐘すべてが、これ以上増水しないよう祈願して、たえず打ち鳴らされた。そして家の中では、人びとはやかんや真鍮のたらいをたたいて、神に『お慈悲を(ミゼルコールディア)を、お慈悲を(ミゼルコールディア)を』と大声で呼びかけた。・・・サン・ジョヴァンニ洗礼堂では、祭壇が水に浸かってしまい、水位は入口の前の斑岩柱の高さの半ば以上に達した。そして〈バルジェッロでは〉、水位は3メートルの高さにまでなった。

 カッライア橋はアーチ二つを残して倒壊した。そぐその後、トリニタ橋が橋脚一つとアーチ一つ以外は潰れた・・・今度はヴェッキオ橋の番であった。この橋がアルノ川を流されて来た、倒れた樹木の大枝で塞ぎ止められた時、川水はアーチの上を大波となっておそい、橋上の商店におそいかかり、中央の橋脚二つ以外はすべてを流し去った。」

 自然災害だけではない。二大銀行だったバルディ銀行とペルッツィ銀行が、それぞれ1343年、1346年に倒産した。原因は1337年に始まった英仏百年戦争。よくある王位継承問題のひとつとして、イングランド王エドワード3世が大国フランスに宣戦布告して開始されたが、長期的なヴィジョンを欠いたまま続けられた戦争は膨大な国費を必要とした。貢納金をつり上げ、公債を発行して資金をかき集めるが、慢性的な資金不足に苦しむ。この時、二国の宮廷を支えたのがイタリアの金融家たち。バルディ銀行とペルッツィ銀行のロンドン支店もイギリス王家の担当にあたっていた。しかし膨れ上がる借金はとどまるところを知らず、両国は何度休戦に至っても、またすぐにどちらかが協定を破ってしまう。

 首が回らなくなったエドワード3世は、ついに借金を踏み倒す暴挙に出る。両銀行の損失は136万5000フィオリーノ。1フィオリーノは約3.5gの純金なので、現代の金価格に直すと200億円を超える。これ

は当時のイングランドの総資産価格に匹敵する額。バルディとペルッツィは現代の歴史家によって「メディチ以前のメディチ」と言われるが、運用資産の規模からすると、「メディチ以上のメディチ」だった。そしてフィレンツェ経済を支えてきた二大銀行の倒産は、その傘下にあったフィレンツェ経済全体の危機として広がっていく。

 さらに、1346年から47年にかけて数千に及ぶ死者を出す大飢饉が襲う。この飢饉の際には、政府の適切な処置で民衆蜂起に至らずに済んだが、1348年、今度はペスト(黒死病)が襲来。 

「1348年のこと、イタリア中でも最も美しい町、フィレンツェに恐ろしい悪疫(ペスト)が流行しました。どんな予防法も信心も役に立たず、治療法もなく、人々は次から次へと感染して死んでゆきました。この病気にかかると体の各部分に黒い斑点ができ、それはすなわち、死の兆候でした。死人は町にあふれ、悪臭は町に満ち満ちる有り様、どこもかしこも死人か、もしくはもうすぐ死ぬ病人ばかり、坊さんに葬式をしてもらえるものは稀で、柩も追いつかず、死体は板に乗せて運ばれ、どこでも空いた墓穴に投げ込まれました。恐怖と自暴自棄が、人々の心から人間らしさを奪いました。もはや人々は、身内であれ友人であれ、病気にかかった人を看護しようとせず、逃げ出したり、打ち捨てたりしたのです。

 郊外では、穀物の刈り入れも行われず、家畜は勝手にうろつきまわっていました。町の中では、壮大な宮殿、立派なお邸(やしき)も無人になってしまいました。生き残っている市民の、ある者は無頼漢のように他人の家へ押し入り、掠奪したりし、ある者はほしいままに快楽にふけって、それによって不安を忘れようとしました。男も女も、つつしみを忘れ、道徳も、神を信ずる心も失って、その日その日を悪夢のように過ごしていました。そしてそれら、すべての上に、ペストの嵐は吹き荒れていたのです。」(ボッカチオ『デカメロン』)

1348年にフィレンツェで黒死病が流行したときの様子 ボッカチオ『デカメロン』挿絵

アンドレア・デル・カスターニョ「ジョヴァンニ・ボッカチオ」ウフィツィ美術館

ジョヴァンニ・ヴィッラーニ像  1348年ぺストで死去

サンタ・クローチェ聖堂 フィレンツェ

サンタ・クローチェ聖堂バルディ家礼拝堂

ジョット「聖フランチェスコの葬儀」バルディ礼拝堂壁画 サンタ・クローチェ聖堂 大銀行家バルディ家の注文によって描かれた。銀行家たちは、「禁断の利得」による蓄財に罪の意識を感じており、それを贖うべく、自家の礼拝堂の装飾などに好んで金をかけた。

サンタ・クローチェ聖堂ペルッツィ家礼拝堂

ジョット「福音書記者ヨハネの昇天」ペルッツィ礼拝堂壁画 サンタ・クローチェ聖堂

「エドワード3世」 ナショナル・ポートレート・ギャラリー

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