「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」1 13世紀フィレンツェ

 14~16世紀のヨーロッパ社会の転換期に起った革新的な文化運動である「ルネサンス」(Renaissance)は、「文芸復興」(ギリシア,ローマの古代文化を理想とし,それを復興させつつ新しい文化を生み出そうとする運動)と訳されることが多いが、元来は「再生」を意味するフランス語。19世紀の半ば、フランスの歴史家ジュール・ミシュレが与えた名(『フランス史』第7巻 1855年)にもとづき、次いで現れたスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルト(『イタリア・ルネサンスの文化』 1860年)が受け継いで、歴史学上の用語に仕上げた。そして二人が議論のレールを敷いて以来、ルネサンスの文化運動については、あらまし次のような了解が与えられてきた。ルネサンスとは、人間精神が新しく解放された時代であり、それは次の二つの特徴を持っている。第一には、ルネサンスの人々は、長らくヨーロッパを野蛮と暗黒に閉じ込めてきた中世の束縛から解放された。第二には、そこで誕生した自由な精神は、ヨーロッパ人を人類文化史の頂点に押し上げ、近代文化の基盤をしっかり据えた。つまり、暗黒方の離脱(中世の終末)と、光明への跳躍(近代の開始)。

 ミシュレとブルクハルトが整った説明をくだしてから1世紀あまり、このようなルネサンス観は、大筋において維持されてきたように見えるが、その間にさまざまな疑問が提示されてきた。第一は、中世という時代に人間と文化が暗黒のうちに沈んでいたとする見方への疑問である。14~15世紀にはじめて人間精神の復興が見られたのではなく、それに先立つ長い時代に、徐々の過程をとって、復興が進行していたのではないか、というのである。第二は、ルネサンスが達成したという近代世界観の創造への疑問である。ルネサンスはいまだ、なかば中世の暗黒のうちに身をひそませており、迷信や虚像によって世界を観照していた、と主張する。

 いずれももっともな疑問だが、今はこの点に関心はない。考察したいのは、「ルネサンス時代とは、要するに、見たい知りたいわかりたい、と望んだ人間が、それ以前の時代に比べれば爆発的としてもよいくらいに輩出した時代」(塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』)であり、それがなぜイタリアのフィレンツェで最初に生み出されたのかということ。

 フィレンツェがイタリアやトスカーナの諸都市の中で頭角を現し、他に抜きんでた都市的繁栄を誇るようになったのは、13世紀後半のことである。フィレンツェのコムーネ(都市国家)としての発展は、北イタリアの二大海港都市(ヴェネツィアとジェノヴァ)やロンバルディア諸都市、トスカーナではランゴバルド公の都ルッカや海港都市ピサに一歩遅れたが、12世紀以降、羊毛工業や北ヨーロッパとの遠隔地貿易、金融業によって驚くべき急速な経済成長を遂げ、13世紀末にはイタリアのみならずヨーロッパの第一級の大都市にのしあがるのである。

 13世紀のフィレンツェの奇跡的発展を最もよく示すのは、アルノ川に架かる四本の橋と市壁の拡張である。フィレンツェには長い間一本の橋すなわちヴェッキオ橋しかなかった(現在のヴェッキオ橋は1345年に架橋されたもの)。それが13世紀になると「オルトラルノ」と呼ばれる左岸(南岸)にも職人街ができて交通量が増したため、両岸を結ぶ三本の橋が一気に新設される。カッライア橋(1220年)、グラツィエ橋(1237年)、サンタ・トリニタ橋(1252年)である。一方、12世紀の市壁(第二市壁)から一世紀後、1284年から1333年にかけて新市壁(第三市壁)が建設された。これが19世紀まで続く市壁である。15の市門と72の塔をそなえた全長8.5キロにおよぶ新市壁は、630ヘクタールの土地を包含している。古代都市の32倍の面積である。

 こうして、13世紀末から14世紀初頭にかけて奇蹟の都市フィレンツェの舞台は整った。しかし13世紀の繁栄が15世紀のルネサンスへと直結したわけではない。フィレンツェは14世紀の試練を経なければならなかった。

フィレンツェの景観 1490年木版印刷画 コメ―ラ美術館 フィレンツェ 

フィレンツェ

フィレンツェ サンタ・マリア・デル・フィオーリ大聖堂

フィレンツェ アルノ川と橋

フィレンツェの市壁と主要建造物

トマ・クチュール「ジュール・ミシュレ」カルナヴァレ美術館 パリ

ヤーコプ・ブルクハルト

ボッティチェリ「春」ウフィツィ美術館

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