「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」3 危機の14世紀(2)
『ボッカチオ』のペストの記述について二点補足したい。
(1)「恐怖と自暴自棄が、人々の心から人間らしさを奪いました」
ジャック・リュフィエ、ジャン=シャルル・スールニア『ペストからエイズまで-人間史における疫病』(国文社)に、より具体的にこう書かれている。
「多くのひとが誰にも看取られずに死に,非常に多くの人々が飢えた。つまり,もし誰かが病床についてしまうと,家族の者は恐怖にかられて,家の中の病人に向かって『医者を呼んで来る』と言って,そっと道路側の戸口のドアから出て行き,二度と戻ってはこなかった。こうして病人は先ず家族から裏切られ,次いで食糧からも断ち切られた。さらに熱が出て来ると,状態はもっと悪くなった。夜毎に,多くの病人が近親者に見捨てないでくれと訴えた。すると近親者は,『自分でパンとワインと水を食べなさい。そうすれば世話してくれる者を夜中にそのつど起こさずにすむ。そして昼夜わかたずその人の世話にならずにすむ。これらの品をベッドの枕元の椅子の上に置いておくから,自分で何とかしなさい』。病人が眠り込むと,近親者は出て行き,戻ってはこなかった」
たとえ生き残ったとしても、近親者にこのような態度をとらざるをえなかった人々に、大きなトラウマとして刻みつけられたのは間違いない。
(2)「道徳も、神を信ずる心も失って、その日その日を悪夢のように過ごしていました」
自分の大切な人が目の前で次々に死んでゆく。明日はわが身の恐怖。ペストを「神の罰」と受け止めた当時の人々の対処法は、神に祈るしかない。しかし、いくら祈っても状況は変わらない。多くのものは「終油の秘跡」すら受けられない。これは恐怖だ。死後天国に入る可能性がシャットアウトされるから。司祭たちの多くが感染し亡くなってしまった。地域の教会で働く司祭たちは,病人が臨終のときに,そこに立ち会って最期の告白を聞き,彼らの生涯に犯した罪を軽減するという役割があったが(「終油の秘跡」。カトリック教会の7つの秘跡のうちの一つで、現在では「病人の塗油」という。罪のゆるしと,可能なら病気の治癒を祈る。),ペストが流行し始めると,患者から告白を聞くうちに感染して,真っ先に倒れてしまった。
「司祭たちの多くは良心的にみずからの責務を果たした。そしてペスト患者に恐れることなく臨終の秘跡を与えた。そのあとで司祭たちは,経験がそれを教えたのだが,多少の早い遅いはあるものの自分も間もなく死ぬだろうと予感していた。シモン・ド・ クヴァンはアヴィニヨンの教区聖職者の勇気を次のように記している。『荒れ狂う疫病は,聖なる魂の救済者すなわち司祭たちが病人に恵みの賜物を与えようとするまさにその瞬間に彼らを不意打ちした。突然司祭たちは死に見舞われた。ときどき,当の病人より早く,病人の身体に触れたか,ペスト患者の息を吸ったかした,というだけで』」(クラウス・ベルクドルト『ヨーロッパの黒死病―大ペストと中世ヨーロッパの終焉』国文社)
フィレンツェの十人の若い男女が、ペストを避けて空気の清浄な森の中の別荘に十日間の休養を過ごす。その無聊を慰めるために毎日各人が一つずつ物語をして聞かせる。十人が十日で話す百の物語、それが『デカメロン』(ギリシャ語の「十日 deka hemerai」に由来し、『十日物語』とも和訳される)の枠組。驚かされるのは、その百の物語のどれにも生命力の横溢した人間が登場することで、路傍に屍体が折り重なるあの地獄のようなパンデミックの中で書かれたものとは到底思えないことだ。暗い詠嘆の影も瞑想の跡もここにはなく、作者の快活な哄笑が、どの物語からも響いてくる。ふてぶてしいまでに強靭で呆れるほど健康な欲望と意志。どの話からも伝わってくるのは、人間という生物のしたたかさと滑稽さへの共感、肯定。すべてが「充実した生」の諸相の一面として描写され、悲壮感や無常観や厭世主義とは無縁の世界。強靭な精神のなせる業。さすが、ヨーロッパ近代文学の祖といわれるボッカチオだけのことはある。
フランツ・ヴィンターハルター「デカメロン」リヒテンシュタイン美術館
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 フィレンツェ
第一日第一話 チャペレット 懺悔をするチャペレット 死者の徳を説教する尊師
「黒死病の死者の埋葬」 トゥルネー(ベルギー)
ハンス・ホルバイン「死の舞踏 行商人」
ジュール・エリー・ドローネー「ローマのペスト」ブレスト美術館
1476年、ローマはペストの猛威に襲われた。遺体が積み重なる街中に死の天使が現れ、次なる犠牲者がいる扉口を指し示している。背景には、現在はカピトリーニ美術館にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像が描かれている。
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