「世界を変えた男コロンブス」13 第1回航海④帰国(ⅲ)

 コロンブスはアゾレス諸島で、ジョアン2世への書簡で、そしてリスボンの街でインドに到達したと公言している。リスボンでは、種々の新奇な物産はもとよりグアナハニ島の住民まで公開している。西廻り航路によるインド到達という国益に関わる重大情報は、まず最初に、この航海事業のパトロンであるカトリック両王に報告すべきものである。なぜこのような重大な情報をコロンブスはリスボン市民にまでさっさと公表してしまったのか?自分の航海によって間違いなく損失を被ることになるポルトガルの領内に入ってしまった今、コロンブスはこの航海の成果が自分の命とともに闇に葬られるのを恐れた。そのため、こうした動きを事前に封じるために、いち早く問題の情報を天下に公表しようと考えたと思われる。実際、ジョアン2世の宮廷の取り巻き連中は、コロンブスの暗殺を王に注進した、王は拒絶したが。

 コロンブスには別の心配もあったと思われる。ピンタ号のことである。しけのなかで再び離れ離れになったピンタ号の消息は不明だった。それだけにコロンブスはピンソンが自分よりも早くカスティーリャへ帰着し、航海の成果を自分のものにするかもしれないという不安があった。その通りだった。2月の終わりごろ、スペイン北部のビーゴに近いバジョナ港に避難したピンソンは、ただちにカトリック両王に書簡を送り、帰国の報告と謁見の許可を得て、航海の一部始終をお伝えしたい旨を申し入れている。両王は、コロンブス自身から報告を受けたいと返書をしたためたため、ピンタ号はバジョナ港を出て、パロスに向かう。ピンソンがパロスに帰着したのは3月15日。コロンブス帰着と同じ日の数時間後だった。この時ピンソンは病の床(梅毒に感染していたとも言われる)にあり、コロンブス帰還の祝いがパロスの町で賑やかに繰り広げられる中、ひっそりこの世を去る。こうしてピンソンの死によって、コロンブスは第1回航海の栄誉を独り占めしてしまう。

 いずれにせよ、始まりから224日目に、歴史上、最大の往復航海は終わった。航海日誌にしたためられたコロンブスの最後の言葉が残っている。

「このたびの航海を通して、神の御意が何度となく奇跡によりて示されたことを(航海日誌に明らかであろう)述べておく。私は長らく両王の宮廷にあって、この事業は馬鹿げていると反対する多くの宮廷人の妨害にあったが、主の御名のもとにこの航海がキリスト教の大いなる栄光にならんことを願う。すでにいくばくかの貢献は達成されている」

 カトリック両王からコロンブスに届いた返書は、彼にとってはそれ以上望みえないものであった。彼は王宮(当時はバルセロナにあった)に参内するよう要請される。両王はバルセロナの宮殿でコロンブスに接見。ドン・ファン王子の横に座らせることまで許した。数週間にわたり数多くの式典や祝賀の宴が催された。今やコロンブスは貴族に叙せられ、名前に「ドン」という貴族の敬称を付けることを許された。

 コロンブスの第1回航海は、発見の使命を帯びた事業として計画され、実行された。しかし、コロンブスがスペインに帰還した時点で、コロンブス提督とカトリック両王はまったく別種の事業を計画し始めた。すなわち、植民地建設のための航海である。第2回航海はヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化のあらゆる原型となった。初期のスペイン人探検家の黄金欲に始まる略奪の原型、ヨーロッパ人とインディオの人間関係の原型、人種差別や人種均質化の原型、教会と国家の提携や対立の原型などである。

 第2回航海でコロンブスによって解き放たれたさまざまの力は、それ独自の生命を帯び、以後1世紀にわたってコンキスタドーレス(征服者たち)とともに存続することになる。結局、南北アメリカ大陸の全土はヨーロッパ人に支配され、西半球の偉大な独立闘争から久しい歳月を経た今日でも、住民の大多数はいまだヨーロッパ諸言語を話し、ヨーロッパの慣習や宗教を固く守り、ヨーロッパをモデルにした政治制度で国家を統治している。

ドラクロア「コロンブスの帰還」トレド美術館

第1回航海後、バルセロナでカトリック両王に謁見するコロンブス

コロンブス記念柱 バルセロナ

コロンブス記念柱 マドリード

マルティン・アロンソ・ピンソン像 パロス

セビーリャ大聖堂のコロンブス墓碑

ドミニカ共和国サント・ドミンゴのコロンブス墓碑

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