「世界を変えた男コロンブス」12 第1回航海④帰国(ⅱ)

 アメリカでは、コロンブスが新大陸に到達した10月12日(現在は10月第2月曜日)は「コロンブス・デイ」として連邦政府の法定祝日になっている。しかし、コロンブスの第1回航海は実は往路以上に帰還航路が大変だった。コロンブスの名が歴史に登場することなく消え去っていた可能性も大だったのだ。

 1493年1月4日、ナヴィダー居留地をあとにしたコロンブスは、ピンタ号のピンソン船長が先を越して手柄話をしてしまわないように、まっすぐスペインに向かうつもりだった。ところが2日後の1月6日、ピンタ号が風下の向うから姿を現わした。ピンソンは独航したのは潮のせいでどうすることもできなかったとか、いろいろ説明したが、コロンブスはすべて聞き流した。帰りの航海をともにする船があるのはいいこと。その時代には、伴走する船もないまま、長い航海をする者はまれだった。

 帰還の旅は順調に進む。しかし、2月13日夜、海はおおしけになる。船は木の葉のように舞い、だれもが沈没を覚悟した。嵐の最中、コロンブスはペンをとり、羊皮紙に航海日誌の概略を書く。そして、それをろう張りの布に包んで樽に入れ、海に投げ込んだ。自分の成し遂げた新発見の事実を、誰かにわかってもらいたかったからだ(この樽はとうとう見つからなかったが)。この大しけの中、ピンソンの乗るピンタ号はまたもやニーニャ号と離れ離れになってしまう。

 ニーニャ号に乗っていたコロンブスたちは、神の助けを求めてくじ引きをする。一つだけに十字のしるしをつけたヒヨコ豆を人数分だけ帽子に入れた。十字を刻んだ豆を引き当てたものが、無事帰還できたお礼にグアダルーペ修道院に巡礼する取り決めだった。コロンブスが当たりくじを引いた。嵐がおさまる気配がみられなかったので、くじを繰り返し、結局は全員が「われわれが最初に到着した土地で、全員がシャツを着て隊列を組み、聖母を祀る教会に祈りを捧げに行くこと」を誓った。

 2月15日の朝までに波は鎮まり、ニーニャ号の水夫のひとりがアゾレス諸島南部の小島、サンタマリア島を見つけた。コロンブスはできればそこは避けて通りたかった。アゾレス諸島はポルトガル領だったからだ。ポルトガルはアルカソヴァス条約で勝ち取った西アフリカ貿易保護区をスペインに侵されないよう常に警戒していたから、サンタマリア島の役人はコロンブスたちを領海侵犯者と判断した。役人は島の教会で祈りを捧げていたニーニャ号乗組員の一部を逮捕し、取り調べで彼らがアフリカへ行っていないことが判明してからやっと釈放した。

 しかし、警戒心の強いポルトガルとのいざこざは、これで終わったわけではない。アゾレス諸島を出てから、ニーニャ号は再び大嵐に出会う。そしてポルトガルの沿岸水域に押し流される。3月4日朝、コロンブスはロカ岬を目にする。ニーニャ号は一枚の四角い帆だけでかろうじて難破を免れている状態だったので、コロンブスはリスボンに寄港して船の修理をすることにする。ジョアン2世のポルトガルに寄港すれば、どんな破目に陥るか、それが賭けであることはよくわかっていたが。まずコロンブスはリスボン港に投錨していたポルトガルの軍船と対峙する。その船長はバルトロメウ・ディアス。喜望峰を回るアフリカ周航路を切り拓いた偉大なポルトガル人探検家。ディアスは事情聴取のためコロンブスに出頭するよう命じた。コロンブスは、スペイン領国王の提督という高い身分を盾にこれを拒絶し、ディアスはその証拠文書を調べて納得した。

 このときすでに、コロンブスは国王ジョアン2世に書簡を送り、リスボン港に入港する許可を申請していた。3月8日、王の使者が返書を持ってあらわれた。申請は許可され、ニーニャ号に必要なものはすべて無料で供給するとあったばかりでなく、宮廷を訪れ、王と謁見するようにということであった。これを受ければ、さらに出発は遅れ、それにイサベル女王への報告を果たさぬままポルトガル王に謁見すれば、女王の不興を買うだろう。それでも招待は受けねばならないとコロンブスは判断した。

ジョアン2世 旧500エスクード紙幣

ポルトガル王ジョアン2世

アゾレス諸島地図

ロカ岬の灯台

ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑

コロンブス イタリア旧5000リラ紙幣

0コメント

  • 1000 / 1000