「世界を変えた男コロンブス」11 第1回航海④帰国(ⅰ)

 12月5日、南東洋上に大きな島が現れた。ボイオ島(「小屋」という意味)である。この島の周りを見ているうち、コロンブスはこの地の山や谷、それに平野や樹木、また草花や魚までも、カスティーリャのそれに似ていることに気がつく。そこで「地球上で最も美しい」(12月12日 航海日誌)この島を「エスパニョーラ島」(スペインの島)と命名した。そして、コンセプシオン港の西の岬に十字架を建て、カトリック両王の名をもってこの島の領有宣言を行った。コロンブスは12月6日の日誌に、それまで観察したエスパニョーラ島の土地と住民について次のように書きとめている。

「両陛下にしかと申し上げますが、この地方はいずこもそうでありますが、とりわけ、このエスパニョーラ島の美しさ、土地の肥沃なことは、なにびとといえど、言葉では言い表すことはできず、なにびとといえど、これを目にしない限り、信じられないでありましょう。両陛下、この島も、他のいずれの島々と同様、今や、カスティ―リャの土地と同じく、両陛下の御所領であります。この地に砦を一つ設けるだけで、両陛下はこの地の人間を思うがままに御指図できるでありましょう。と申しますのも、わたくしが率いておりますさして多くはない人員だけで、これら島々の隅々まで危険なく巡ることができるからであります。事実、水夫が3名だけで陸に上がった時も、インディオは群がるほどに居合わせたにもかかわらず、3名に危害を加えるそぶりすらみせず、一人残らず逃げてしまったのであります。この地の人間は、だれもかも裸で、武器を所持しないばかりか、およそ武器というものに無知で、すこぶる臆病であります。彼らは千名が寄ってかかっても、我ら3名の前にはひとたまりもないでありましょう。でありますれば、彼らは両陛下の御命令一つで、労働に就き、種まきなどの作業や町の建設に従事するとともに、衣服を着用し、我らの生活習慣を身につけるものと考えます。」

 グアナハニー島到着以来、コロンブスは訪れる先々で接触する島の住民のナイーブなこころを称賛しているが、根底には、つねに、彼らは戦うということを知らないその性質ゆえに従順な労働力として利用できると見抜いていたことがわかる。事実、その後の歴史は事業家コロンブスが着目した通りに進行していくことになる。

 今日のエスパニョーラ島は、ハイチとドミニカ共和国に二分されているが、コロンブスが到着した時、島全体にアラクワ系グループのなかで最も進んだタイノ族が住んでいた。しかし、やがてスペイン人が持ち込んだ病気や過酷な労働でタイノ族は絶滅。アフリカの奴隷が労働力としてこの島に送り込まれる。そして17世紀にフランスが配置を占領し、多数の黒人奴隷を少数の白人が使役する抑圧的支配に基づいたプランテーション制度を発達させた。カリブ海域で最初の独立運動を成功させ、西インド諸島のなかの事実上のアフリカ人共和国をつくり上げたのは、こうした奴隷たち(フランス革命に刺激された黒人ジャコバン派)だった。

 クリスマス(12月25日)が始まる真夜中、サンタ・マリア号は座礁。嵐の中ならいざ知らず、選りによって凪のなかで、それもクリスマスの夜に座礁してしまったのだ。最も深刻な災難の最中でも神の意思を感じるコロンブスは、この旗艦の座礁はエスパニョーラ島に居留地を作れという神の思し召しだと結論する。

「まさしくこれは災難ではなく、大いなる幸いと解すべきである。座礁しなければ、この地に錨をおろすこともなく通り過ぎたであろう」(12月25日 航海日誌)

 ピンソンが指揮するピンタ号がいない今、残ったニーニャ号だけでは全員が帰国はできない。乗組員は、われもわれもと先を争って残留を志願。黄金がありそうな証拠がたくさんあって、人財産築けるだろうと計算していたのだ。こうして39名が残留する居留地=砦が建設され、「ナヴィダー」(「クリスマス」の意味)と名付けられた。そしてコロンブスは1月4日、わずかニーニャ号1隻で出帆し、帰国の途に就く。

ナヴィダー砦の建設

コロンブスの旗艦サンタマリア号

ハイチ皇帝ジャック1世(ジャン=ジャック・デサリーヌ) ハイチ建国の父

1802年 フランス軍と黒人軍の戦闘

ハイチ共和国の位置

大坂なおみ  父はハイチ共和国の首都ポルトープランス出身

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