「世界を変えた男コロンブス」8 第1回航海①
コロンブスが3隻の船でパロスの港を出航するのは1492年8月3日。この時、コロンブスの船隊以外にも川を下り沖に向かっている混みあった船があった。それには何千人ものユダヤ人難民が乗っていた。この日は、4か月前の3月31日に発せられた「ユダヤ教徒追放令」によりキリスト教への改宗を拒むユダヤ教徒に認められた国外退去期限が切れる日だった。
カナリア諸島までのルートをコロンブスは熟知していたが、航海に出て4日目の8月6日、最初の事件が発生する。ピンタ号の舵が外れたのである。単なる故障ではなかった。この航海に渋々参加した船員がなにやら細工したらしかった。応急修理するも翌日再び外れたため、コロンブスはピンタ号をあきらめ、代わりの船を探すためにカナリア諸島に寄港する。しかし代わりの船は見つからず、結局、ゴメラ島で舵を新調してピンタ号を修理。こうしてゴメラ島に1カ月弱も滞在する。早くも乗組員から不満が出る有様だった。
9月6日、カナリア諸島を出航。このとき、3隻のポルトガル船が近辺を航行しコロンブス一行を捕らえようとしている、との報告があった。コロンブスはポルトガル船を避けてやり過ごした。なじみのある陸地が視界から消えてしまうと、多くの船員は「ため息をつき、泣き出した。」9月9日、この日からコロンブスは毎日の航行距離数を乗組員に知らせる際、実際の距離数ではなく、1割ほど差し引いた少な目の距離数を公表することにする。航行距離があまりに長くなると、乗組員たちが怯えるためとコロンブスは説明している。
ところで、船乗りというと荒くれ物のイメージがつきまとうが、そのころの船乗りは、聖職者を除いたら一番といってよいほど信仰心が篤かった。どの船も、架かりの若者が夜明けに歌(「日の明かりに祝福あれ 聖なる十字架 われはうたう」)を歌うことになっていた。このあとで、主の祈りをあげ、アヴェ・マリアを唱えて、船の仲間に祝福あれと祈る。30分ごとに砂時計をひっくり返すときにも、雑用係の若者は「神の御意あらば さらなる時の流れ 時を数え 時を過ぎれば 船は進む」とうたう。そして日が沈み、第1回目の夜の当番が始まると、乗組員はみんな呼び集められ、夜の祈りを唱える。
コロンブスはうまく航路を選んだ。それは後世、新世界に行く帆船が採用した航路に近いものだった。それでも陸地の見えない何週間もの航海は、乗組員たちを苛立たせ不安にさせる。そして、陸地が見つかるとコロンブスがあらかじめ伝えていた750レグアの地点まで残りわずかとなる。乗組員たちはカナリア諸島から750レグアを限度に航海するという条件でこの航海に参加した。乗組員たちは、ここまで航海してきたことで自分たちは十分に義務を果たした、これからは引き返すことにして、帰還するための風を見つけるべきだと主張し始めた。9月24日、反乱一歩手前の騒乱状態となったが、コロンブスはピンソンに事態をおさめるように頼む。ピンソンは「国王陛下ならびに女王陛下から任務を授かって航海に出た以上、手ぶらでおめおめ帰れるか、もし自分の言うことが聞けないなら、片っ端から帆柱にぶらさげてやる」と言って説得したとされる。
10月7日、ウミドリの群れが北から南西に富んでいくのを目にしたコロンブスは、進路を西から西南西に転じた(前日、ピンソンが提示したこの変更をコロンブスは退けていた)。これがよかった。一番近い島まで最短の航路だった。しかし10月10日、また反乱がおきる。コロンブスは最後の努力を傾け、乗組員たちを説得する。「神のご加護を得て、目的を達するまでこの航海を続ける覚悟であり、今ここで不平を述べても無駄である」と言い切り、航海を続行するとの不退転の考えを明らかにした。そのうえで、「皆が思う以上に近くに来ていることを信じてほしい」と、訴え、励ました。11日、青々とした葦や、実のついた小枝が漂っているのが見えた。そして10月12日午前2時、3隻の先頭を進んでいたピンタ号から号砲がとどろき、マストに旗があがる。ついに陸地を発見したのだ。36日かかって、ついに航海は成功したのだ。
パロス出航
丘の上に出発に先立ってミサをきいたサン・ホルヘ(聖ゲオルギウス)教会が見える
サン・ホルヘ教会 塔以外は、ほぼ当時のまま
パロスを出航するコロンブス一行2 後方にラ・ラビダ修道院が見える
第1回航海 3隻の船(想像図)
第1回航海 3隻の船(レプリカ) パロス
アレホ・フェルナンデス「船乗りの聖母」アルカサル セビリア
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